小林ムツミインタビュー
– 小さく熱い、クンビアの開拓者 –

このインタビューは、2020年1月に行われました。
彼女のバンドMumbia Y Sus Candelosos(ムンビア・イ・スス・カンデローソス)は最初のシングルを発売したばかりで、4月にはゲスト参加してもらったof Tropique の新曲リリースが控えていました。
それから、コロナが来ました。
of Tropique のリリース元はアメリカのレーベルでした。あちらの被害は日本の比ではなく、発売延期となり、今後のメドはいまだに立ちません。
リリースに合わせて公開するはずだったインタビューはどうしようと悩んで数ヶ月、なんと!Mumbia が2枚目のシングルを発売したそうじゃないですか!しかも、コロンビアの国営ラジオ局からもオンエアの依頼が来ているらしい。よし、この波に乗るしかない!
というわけで公開することにした幻のインタビュー、Mumbia Y Sus Candelososのレコードと合わせてお楽しみください!
(※以下の内容は、2020年1月当時のものです。)



オブ・トロピークに欠かせないパーカッション奏者、小林ムツミ。
世界中からライブのオファーが絶えない人気バンド 民謡クルセイダーズのメンバーであり、自身の率いるMUMBIA Y SUS CANDELOSOS(ムンビア・イ・スス・カンデローソス)でも7inchをリリースと、勢いが止まらない。
彼女は、「普通」のパーカッション奏者とはひと味もふた味も違う。MUMBIAのライブでは、自らリズム・トラックを打ち込み、ショルダー・キーボードを嬉々として弾きまくる。
オブ・トロピークのレコーディングでも、音楽的とは言い難い要望にも柔軟に対応し、頼まないうちから鳥笛を吹きだす。おかしい。いったい彼女のルーツはどこにあるのか。
MUMBIA Y SUS CANDELOSOSとして初の7inchが好評の中、渋谷宇田川町、音楽好きが集う虎子食堂にて、閉店時間まで話は尽きなかった。  

[取材&写真:近藤哲平]


ジョージ・ハリスンを聞く 

小林:生まれは北海道で、東京の立川で育ちました。小学生のときは6年間ピアノを習ってたんですよ。学校の図書館で民族楽器の図鑑を見たり、テレビの「世界の少数民族」みたいな番組を見るのが好きな子でした。 

ー変わった子供ですね(笑)。音楽との出会いはどんなでした?

 小林:姉がビートルズの熱狂的なファンだったんです。中学のとき、姉がかけてた曲からジョージ(ジョージ・ハリスン。ビートルズのギタリスト。)の弾くシタール(インド音楽で使われる弦楽器)が聞こえてきて、なんだこの音は!って思って。それからインド音楽に興味が出て、高校になってタブラ(インド音楽で使われる打楽器)買っちゃいました。教則ビデオ見たけどよくわかんなくてすぐ挫折しましたけどね。 

ールーツはジョージ・ハリスンですか!

Norwegian Wood はポピュラーミュージックで最初にシタールが使われた曲として知られる 


小林:中高あたりは、近くの大きい図書館で、ボサノバとかのブラジルものや、アフロやレゲエやジャズ、「世界の民族楽器シリーズ」とか、浅く広く片っ端から借りて聴きまくりました。
パンク、ハードコアも好きでしたね。ハードコアバンドをやりたくてエレキギターに挑戦するもメンバーが見つからなくって、バイト先のハードロック好きのお兄さんからなぜかイングヴェイ・マルムスティーンをやれと言われてスコア(譜面)をもらったけど、難しすぎて挫折しました。

イングヴェイ・マルムスティーン


ディジュリドゥを吹く

小林:その頃はジャムバンド(即興演奏中心のロックバンド)が人気で、Phish(=フィッシュ)やMedeski Martin & Woodのライブとか見に行きましたね。

Phish


小林:レイヴ(音楽に合わせて踊る野外イベント。山中などでオールナイトで開催されることも多い。)にもハマって、そこからエレクトロな音楽にも興味を持ちました。いま思えば好奇心が爆発してましたね。ネパール人やニュージーランド人や、年齢も国籍も関係なく友達がたくさんできました。 

ー高校でレイヴですか!山とか行ってたんですか? 

小林:行ってましたねー(笑)。でも深夜イベントは未成年が入れないっていうことを知らなくて、当時新宿にあったリキッドルームで、あなた何歳ですか?生年月日と干支を言ってください、って聞かれて答えられずに悲しく帰った思い出があります。 

小林:高校1〜2年のころからディジュリドゥ(オーストラリアの先住民アボリジニの吹奏楽器。息継ぎをせず循環呼吸で演奏する。)を吹き始めて、帰り道に公園でひとりで循環呼吸の練習してました。月イチで横須賀の公園で開催されているディジュリドゥ奏者の集いとかにも通ってて、「ディジュリドゥ女子高生」って呼ばれてました。たぶん今でもできますよ。まだクンビアでディジュリドゥ吹いた人はいないだろうから、いつかやってみようかな(笑)。

ディジュリドゥ


ーどんどんマニアックな方向に行きますね。 

小林:その集まりで知り合った太鼓叩きの友達がセッションしてるところに遊びに行って横で教えてもらったりしてるうちに、「太鼓好きかも!」って思うようになって。で、ボンゴを買って公園で叩いてたら、たまたま通った人に「バンドやらない?」って誘われたんです。


バンドをはじめる 

小林:それが高校二年生くらいのときです。mossっていう、ダブとジャズとドラムンベースが混ざったような、音は深めな感じのインスト・ジャムバンドでした。 

ー偶然声かけられたにしては、好きなシーンで活動をはじめたんですね。 

小林:そうですね。ちなみにアルバムにゲスト参加しているトランペットはDouble Famousの坂口さん (坂口修一郎。「大事なのは、匂いを嗅ぐこと」参照) で、歌っているのはDRY&HEAVYのAo Inoueさんです。そして、なんと民謡クルセイダーズで今一緒にやっているMoeさんもメンバーだったんです。 

ーえ!高校時代からの付き合いなんですか? 

小林:うん、相当長いでしょ?mossは、2003年に新宿LOFTのレーベルからアルバム出して、リリースパーティをもって解散しました。なんでだったかよく覚えていないんですけど。 

小林:そのころは、HBっていうインストのガールズバンドもやってました。初期の編成は私とチェロ、エレクトロ・マリンバ、ホルン、ドラム、ベース、ギターでした。 

ーまたすごい編成ですね。その人数で女性だけっていうのも珍しい。そういうコンセプトでメンバー集めたんですか? 

小林:はい。ドラムのMakiちゃん(※Maki Garcia。現在はLOVE ME TENDER で活動。)と、ギャルバンやろう!って(笑)。曲はポリリズミック(ポリリズム=複合リズム)に組み立てていてミニマルで、ループ(短いパターンの反復)で盛り上げていく、みたいなバンドで。2005年にフジロックに出て、その後紆余曲折してドラム、ベース、パーカッションのリズム隊のみのトリオになってP-VINEからアルバム出しました。 

ーだいぶ減りましたね。 

小林:まあ、女性は仕事がいろいろありますからね(笑)。
3人になってからは、何せメロディをやる人がいないからリズムとベースのからくりだけで曲を作ってて、リハではポリリズムを延々やる、みたいな。リズムについて考えるすごい良い時間でしたね。パーカッションもいろいろ増えて、グロッケンも使ってました。 


クンビアにハマる 

小林:当時は他にも、即興演奏のシーンに出入りしたり音楽劇で演奏したりラテンビッグバンドに参加してました。 

ーラテンビッグバンド!それまでもラテンや南米の音楽ってやってたんですか? 

小林:全くやってませんでしたね。 

ーそこからクンビアやるようになったきっかけは何だったんですか? 

小林:その頃に参加してたバンドでクンビアを取り入れた曲をやったことがあって、なんかノリが自分の波長と合ってるなーって思ったんですよね。もう全曲クンビアでもいいんじゃないか、ってくらい(笑)。
そこからクンビアのバンドやってみたいなぁってうっすら思い始めて。日本でクンビアって単語をよく聞くようになったのは、デジタルクンビアが広まったあたりだと思うんですけど、私もZZK(アルゼンチンのレコードレーベル。デジタルクンビアの流行を作った。)のアーティストは片っ端から聴いてました。Dick El Demasiadoが来日した時、私のやっていたユニットもイベントで一緒になったこともあるんですよ。

Dick el Demasiado


ーそれはうらやましい!でもデジタルクンビアは打ち込みだし、バンドとはまた違いますよね。 

小林:そうですね。私の場合、デジタルにしてもバンドにしても、クンビアのビート感が大好きなんです。それまでどちらかというと変拍子やポリリズムが好きだったんで、逆にシンプルな4拍子の奥ゆかしさに感動して。私の周りの音楽シーンでは正確でバカテクなリズムを美としがちだったんで、その反動が大きかったです。 

ーなるほど。日本のインストバンドは、テクニック志向が多いですよね。 

小林:私もそういうところにいたから、クンビアの訛りを聴いて、もう最高だ!って思っちゃって。それで世界のありとあらゆるスタイルのクンビアとその周辺の音楽を聴いてるうちに、Meridian Brothers(メリディアン・ブラザーズ)やFrente Cumbiero(フレンテ・クンビエロ)や、クンビアを取り入れた実験的な音楽をやっている人達の存在を知ったんです。 

Meridian Brothers


Frente Cumbiero


小林:世界には自分にとってドツボなシーンがあるんだなぁってすごく嬉しくて、そのままどっぷりハマッてしまいました。それで、日本人である自分がクンビアをやったらどんなものが生まれるだろうと思って2013〜14年くらいから始めたのが、ムンビア(・イ・スス・カンデローソス)なんです。 


ムンビアをはじめる


ーバンド名の Mumbia Y  Sus Candelososは、どういう意味なんですか? 

小林:Mumbiaは「ムーちゃんのCUMBIA」で、スペイン語で「ムーちゃんのクンビアと炎を宿すものたち」みたいな意味です。最初は、吉祥寺BAOBABの(店長の)YOSUKEくんがつけてくれた「Banda de la Mumbia(バンダ・デ・ラ・ムンビア)」っていう名前でやってたんですよ。(レコードを)リリースするにあたってちょっと変えてみようと思ってたら、ムンビアのイラストを書いてくれたマテオ(Mateo Rivano。コロンビアのアーティスト。)が「Mumbia Y Sus Candelosos」はどうかって提案してくれて、めっちゃクンビア・バンドっぽい!よしそれでいこう!と。 

ーなるほど。最初はメンバーも違ったんですよね? 

小林:はい。イベントでのセッションからはじめたんだけど、まわりにクンビアやりたい人がいるわけじゃないし、本当にゼロからのスタートで。最初は人手が足りなくて、自分でシンセやピアニカ吹いたりしてました。私、ティンバレス、ベース、コンガの編成から始まって、いろんなプレイヤーに協力してもらって試行錯誤しましたね。メンバーもほとんどクンビアを知らないままやらされているわけで、どうしてもジャズっぽくなっちゃったりして、でもそれもまた面白くて。 

小林:あるとき、自分で打ち込んだクンビアのビートのサンプリングをリハーサルに持っていってセッションしてみたら、みんな「いいじゃん!」って言ってくれて、そこからサンプリングを使い始めました。 

ーいまは打ち込みを基本に曲を作ってるんですか? 

小林:リフからだったりベースラインからだったり曲によってまちまちですが、まず打ち込みをつくってリハでメンバーといろいろ構成を試す、っていう感じですね。
あと、いま愛用している赤いショルキー(ショルダーキーボード)は、夢でお告げがあって寝ぼけたままネットでポチったんですが、とても人なつこい音で気に入ってて、曲を作る時に力を貸してくれます。FM音源最高(キーボードの発音方式。特徴的な音色で、80年代に多く使われた)! 

ー最初から管楽器も入れようと思ってたんですか? 

小林:思ってなかったですね。ガイタ(クンビアで使われる管楽器)の入ったコロンビアの音源を聴いていたら、なぜか藤枝さん(藤枝伸介。サックス奏者。)のフルートを思い出したんです。藤枝さんのプリミティブな一面がクンビアに合うんじゃないかと思って誘いました。 

ガイタ、パーカッション、ドラムのセッション。ドラムはフレンテ・クンビエロのPedro Ojeda。


小林:トランペットの梅ちゃん(梅澤伸之)は「クンビア好きなんだ、僕もやりたい」って言ってくれたうれしいメンバーです。マーチングでアメリカに留学してたことがあるそうです。
アコーディオンの梅野絵理ちゃんは一番古い付き合いで気心知れた仲間です。普段はピアノも弾いてます。
ラップのHYDROくんは近所(国立)の飲み仲間で、フィーリングがクンビアに合う気がしたんですよね。国立はレゲエミュージシャンが多いですけど、実はラッパーもたくさん集う街なんです。
ベースの久保さん(久保祐一朗)は、夢に出てきたんですよ(笑)。決まってたライブにお願いしてたベースの子が来れなくなっちゃったときがあって、どうしようって思ってとりあえずやけ酒して帰って寝たら、夢に久保さんが出てきて「なんか困ったことあったら声かけてください」って言われて目が覚めたんです。それで誘ってみたら「声かけてくれてありがとう!」って返事が来て、正夢になりました(笑)。実は一回しか会ったことがなかったんですけど。 

ーそれはすごい!久保さんはクンビアやってたんですか?

小林:プレイは初じゃないかと思うけど、いろんな音源を聴いて研究してくれました。それで、ライブを1~2回やったあとに「オレ録音できるからレコーディングやってみようよ!」って言ってくれて、最初はデモになればと軽い気持ちで録りはじめたんです。2018年の夏で、ものすごい猛暑でした。 


レコードをつくる

小林:レコーディング中に、ヒデさん(Hide Morimoto)がOKRA印っていう日本のレーベルを立ち上げて、しかも一枚目はフレンテ・クンビエロをリリースするっていう話を聞いたんです。コロンビアのバンドが日本のレーベルから出すことに衝撃を受けたと同時に「2枚目は私だ!」と思ってヒデさんに話して、こうしてOKRA印からリリースされることになりました。 

ー今回の7インチ、いいですよね。バンドというより、打ち込みのクラブ寄りのサウンドなのに驚きました。 

小林:生楽器に打ち込みってちょっと毛嫌いされるじゃないですか。私もどっちかというとそう思ってたんだけど、南米のバンドとか聴くと、みんな打ち込みとか自然にやってるんですよね。別に「融合」でもなんでもなくって、ただ単に混ざってるだけ、っていう。あ、アリなんだな、って。 

ームンビアのライブを見たときは、打ち込み感はなくてバンドっぽい印象が強かったんで、いい意味で裏切られました。 

小林:やってることは音源とだいたい同じなんですけどね。

 ーライブだと各楽器のソロもけっこうあるし、自由な雰囲気ですからね。むーちゃんが、パーカッションだけじゃなくってサンプラー操作したりショルキー弾いたりしてて、面白そうな人だなって印象が強かったです。それでオブトロのレコーディングに誘ったら、やっぱり面白かった(笑)。 

小林:哲平さんのレコーディングの第一声が、「下手そうに叩いてください」で、これは気が合いそうだ、って思いました(笑)。 

ーそんなこと言いましたっけ? 

小林:はい。真剣な顔で、けっこう熱く。 


民クルに入る


ー民クル(民謡クルセイダース)はどういう経緯で加入したんですか? 

小林:ムンビアで吉祥寺のBAOBABに出たとき、当時民クルのベーシストだった水野さんがDJやってたんです。初対面だったんですけど、ボンゴいいねー!って言ってくれて。それから数日後に「今日スタジオでセッションするから遊びにきませんか」って連絡がきたんですよ。出先で楽器も持ってなかったんですけど、スタジオに楽器あるから大丈夫って。で、ガチャってドア開けたらセッションじゃなくてガチのバンドのリハーサル中で、それが民クルだったっていう(笑)。しかも前に一緒にバンドやってたMoeさんがいてビックリ。
ちょうどバンドの立て直し時期で、水野さんはいろんな人を誘ってリハーサルしていたみたいです。最初はサポートのつもりだったのが、すぐレコーディングが始まって、いつのまにかメンバーになってそのまま今に至ります。 

ーすごい展開!(笑)
民クルいま勢いありますよね。海外公演も多いし。 

小林:メンバー自体は全く勢い無いんですけどね(笑)。流れにまかせてこうなっちゃったところがあるから、まわりの反応がすごくて驚いています。全てはタイミングですね。 

ー民クルに期待してる人は多いと思いますよ。海外のフェスに出てるバンドって意外といるじゃないですか。それこそコーチェラとかグラストンベリーとかも。でも、国内で認知されるかは別の話だし、世界を舞台に活動してるバンドも少ない。 

小林:それも民謡の持つパワーのおかげなんでしょうね!


コロンビアに行く

ー民クルはいろんな国に行ってますけど、クンビアの本場コロンビアはどうでした?日本から行く人は多くなさそうですよね。 

小林:めちゃくちゃ刺激的で楽しかったです!日本人は、日本料理屋と日本大使館以外ではぜんぜん見かけなくて、私たちが歩いているだけでもの珍しそうに見られました。でも話しかけるとみんなニッコリ笑顔で話してくれて、嫌な感じはなかったです。やっぱりコロンビアといえば、映画なんかでも麻薬戦争、マフィア、っていうイメージが強いけど、みんな優しくてあったかくて、ぜんぜん違う一面がたくさんありましたね。 

ーずっとボゴタ(コロンビアの首都)にいたんですか? 

小林:ずっとボゴタで、移動も入れて2週間くらいだったかな。演奏2回とワークショップ1回と、フレンテ・クンビエロとのレコーディングが2日間。あとは日本大使館にお食事会に呼ばれてコロンビアの伝統料理を堪能させてもらったり、大学を見学したり。
個人的には、タンボール・アレグレ(南米の打楽器)を買いに職人の家に行ったり、ペドロ(Pedro Ojeda。フレンテ・クンビエロのドラマー。)の家でパーカッションのワークショップをやってもらったりしました。コロンビア音楽のリズムを学びたいって言ったら、ペドロが同世代くらいのパーカッショニストを呼んでくれて。コロンビアの太鼓CAJAのリズムが、ボンゴみたいな奏法もあって刺激的でしたね。 

ーへー、楽しそう! 

※タンボール・アレグレを使用した楽曲
 


―大学でのワークショップって、どんな感じなんですか?

小林:授業の一環で、ちょっとライブをやって、そのあと質問コーナーがありました。大学生が挙手してどんどん質問してくるんですけど、やっぱり民謡についてが多かったですね。印象的だったのは、民クルのリーダーが「民謡は大衆の音楽から離れてしまっていてそれをみんなに戻したい」って話したときに、マリオ(Mario Galeano Toro。フレンテ・クンビエロのリーダー。)が、俺たちにとってのクンビアと同じだ、って言って。 

ー一般の人はあんまりクンビア聞いてないんですか? 

小林:クンビアってコロンビア発祥だけど、古き良き音楽というか、若者にはあまり聴かれてないんじゃないですかね。それこそ私たちにとっての民謡みたいな感じで。若者の間ではレゲトンなんかが人気なイメージがあります。だから、民クルとフレンテ・クンビエロって、共通するところがあって。 

ーなるほど。 

小林:あと、コロンビアでの個人的ビッグイベントは、ムンビアのイラストを描いてくれたマテオに実際に会えたことです。民クルのライブを観に来てくれて、会えたときは本当に嬉しかったですね。そのあと家に遊びに行って、作品を見せてもらったり昔のクンビアのレコードをたくさんかけてもらったりしました。彼はレコードコレクターで、毎週ポータブル・レコードプレイヤーを持参してフリマにに行ってディグりまくっているそうです(笑)。(※ディグる=探す、の意味)


小さくて熱いシーン

 ー個人的に、ボゴタの音楽シーンにすごい興味あるんですよ。フレンテやメリディアンの周辺って、複数のバンドでメンバーが重複してるじゃないですか。ミュージシャン達が行き来して、ひとつのシーンみたいなものを作ってるのかなーって想像します。 

小林:うん、そうかも。いい意味で、小さくて熱いシーンというか。やっぱりフレンテ・クンビエロとメリディアン・ブラザーズとRomperayo(ロンペラージョ)。あの人たちみんな昔からの仲間なんですよね。コロンビアのアンダーグラウンド・シーンを世界に発信して、それが広まってどんどん大きな輪になってきてる。 

ー小さくて熱いシーンって、いいですね。実際、それが日本にも届いてバンドはじめた人がここにもいるわけだし。理想的だと思います。

Romperayo


小林:そうですね。ムンビアもちょっとずつ広がりつつあります。手探りで真っ暗闇だったのが、世界の人の顔が見えるようになってきて。やっぱり世界をつなげるって意味ではSNSの力はすごいです。南米の人たちは特に、知らない人でもSNSでフレンドリーに話しかけてくるんですよね。英語とスペイン語を勉強しないと(笑)。

―いいですね!
クンビアに限らず古い音楽に興味を持ったときって、最初はどれ聴いたらいいかわからないじゃないですか。どの曲も似てて同じに聴こえるし。そんな中で、オリジナリティのあるバンドの存在は大きいと思うんですよ。日本でも、民クルやムンビアみたいに、昔の音を再現するだけじゃないバンドが増えてシーンができたらいいですよね。その方が、いろんな人に届くと思います。期待してますよ!

小林:ありがとうございます。でもやりたいことやってるだけだから、何も責任とれませんけどね!(笑) 

Mumbia Y Sus Candelosos – “Obake Step”


小林ムツミ

MUUPYの愛称で親しまれる打楽器奏者。ソロプロジェクトとしてクンビアバンド「Mumbia Y Sus Candelosos」を結成し、オリジナルの楽曲に多方面で活躍するミュージシャン、シンガー、ラッパーを迎えて陽気なセッションを展開している。2020年1月にOKRA JIRUSHIより1枚目の7インチシングルをリリース、2020年9月1日に2枚目の10インチシングルをリリース。また現在はアフロ・ラテンミュージックをベースに日本の民謡をのせたバンド「民謡クルセイダーズ」のメンバーとして世界各地で演奏している。2017年12月にP-VINE RECORDSより1st album「MINYO IN THE TOWN」をリリース。2020年9月2日にはコロンビアのバンドFrente Cumbieroと民謡クルセイダーズのコラボレーション作品を「Minyo Cumbiero」としてリリースし話題となる。その他クラブミュージック、シンガーのサポート、ダンスや音楽劇での演奏、即興演奏、レコーディングなど、幅広いフィールドで活動中。

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東海林毅インタビュー
– クイアな映画を録ってやる –

新曲 “Woooo” のMVを作った東海林毅は、僕(近藤:of Tropiqueクラリネット担当)の旧友です。出会ったときは、お互いまだハタチ前後でした。僕は映像をやっていて、彼はまだ学生で、撮影か何かを一緒にやったのかよく覚えてないけれど、近くにいたのは数年の間。それから僕は音楽を始め、お互いに会うこともなくなりました。昨年、MVの映像合成について相談しようと連絡を取ったのが、約20年ぶりです。
そして、東海林がMVを作り、彼の短編『帰り道』に僕らが音楽を付けました。そんなにも古い友達とまた一緒にやれるなんて、心から、とても嬉しい。けど、20年です。あらためてインタビューという形で、東海林のこれまでの話を聞きました。距離が近いからこそ話は深くなり、1万字を超えるボリュームに。四ツ谷の名物アジア料理店「稲草園」での、友人同士のざっくばらんな会話の記録です。

金沢のオタク

近藤:東海林って、生まれどこだっけ?

東海林:金沢。武蔵美に入るまでずっと向こうにいた。
最初は、絵を描いてたんだよね。小学校のとき絵画教室に通って水彩と油をやってた。

近藤:そうなんだ!小学生で油絵やってたの?

東海林:そう、小6までね。中学に入ってからは、ちょっと萌えっぽいオタクっぽいイラストを描くようになって。オタク文化が百花繚乱だったんだよ。でも、宮﨑勤の事件(※当時26歳だった宮崎勤による連続少女誘拐殺人事件。宮崎の部屋から大量のアニメ雑誌やビデオが発見されたことで、「オタク」に対するネガティブなイメージが広まった。)があったりしてオタクが叩かれてた時代だし、人に知られてはいけない趣味だと思ってたね。


近藤:そうだよね。まだオタクって、いじめとまではいかないけど・・・。

東海林:うん、まだぜんぜん認知されてなくて、気持ち悪がられる人種だったよね。だから人知れず描いてた。


『コマンドー』と『デリカテッセン』

近藤:映画は?俺らの小学校の頃って、スピルバーグが全盛だったじゃん。あとシュワルツェネッガーとスタローン。

東海林:そうだね。僕は人生でいちばん繰り返し見てる映画はたぶん『コマンドー』だと思う。


近藤:マジで?俺、シュワルツネッガーむちゃくちゃ好きだったんだよ!『ツインズ』も劇場に観に行ったし、テレビの 「洋画劇場」でアクションものはぜんぶ見てた。昔は週4日は何かしらやってたよね。
(※当時の東京圏では、木曜〜日曜の21時に、各局ごとに映画番組が放送されていた。『木曜洋画劇場』解説=木村奈保子、『金曜ロードショー』解説=水野晴郎、『ゴールデン洋画劇場』解説=高嶋忠雄、『日曜洋画劇場』解説=淀川長治)

東海林:いや、うちらのとこってチャンネルが少なくてフジ系とTBS系だけだから、高嶋忠雄のゴールデン洋画劇場しかなかったんだよ。水野晴郎のやつが僕が高校のときに映るようになって、淀川長治を見たのは上京してからだから。

近藤:へー、そうなんだ!まあでも中学くらいになると、深夜にやってるのも見るようになるじゃん。俺はとりあえず全部ビデオに録って片っ端から見てて、その中に、ウディ・アレンの『私の中のもうひとりの私』があったんだよね。それまで見てたハリウッドものと全然違って衝撃だった。暖色系のあったかい色味で、画面の質感自体からして違う。音楽も、ウディ・アレンは古いジャズを使うじゃん。あの映画はサティ(※エリック・サティ。フランス印象主義の作曲家。)使ってるんだけど、室内楽的なしっとりした感じで、ハリウッドのオーケストレーションの派手さとは違う。とにかく全部のテイストが、それまで見てた映画とまったく別物だったんだよね。

東海林:最初に衝撃を受けた映画ってあるよね。僕はジュネ&キャロの『デリカテッセン』を見て、ああこんな映画があるんだ!って思った。


東海林:『EX(エックス)テレビ』っていう深夜番組で取り上げられてて、変な映画!って思ったんだよね。金沢って、単館系の映画は根本的にやってないんだけど、金沢大学の映研が、ときどき東京から単館系のフィルムを借りてきて、映画館で上映会をやってたのね。高校のときかな、そこで『デリカテッセン』を上映するって知って、見に行ったんだよ。そのときのチケットいまだに持ってるよ。手作りで印刷したやつ。そこからようやくヨーロッパ映画に目が向いたかな。

近藤:ヨーロッパ映画にいつ出会うか、ってあるよね。最初はだいたいハリウッド映画からじゃん。

東海林:そうだね、ハリウッド映画しか、地方ではやってないしね。

近藤:それだと、ヨーロッパ映画に興味持っても見れないじゃん。どうすんの?

東海林:レンタルビデオ屋に、ちょっとマニアックなのも置いてあったからね。少ないけど。あとはまだ深夜映画がそういうのを拾ってくれてたじゃない?深夜映画って、こっちが見ようと思ってないのに、強制的に出会わされちゃう感じがある。高校時代くらいから深夜映画がすごい好きになったね。


デヴィッド・リンチで筋トレ

近藤:高校時代は、映画の他は何やってたの?絵?

東海林:うん。人知れずこっそりね(笑)。スポーツに興味がなくって部活も入ってなかったし。でも家で筋トレはやってたんだよ。もともと中学は陸上部で砲丸投げやってたし、ガチで体鍛えてたから。デヴィッド・リンチの『ブルー・ベルベット』や『ツイン・ピークス』とかを見ながら、1日100回ぐらい腕立てとか腹筋とかやってたよ。


近藤:え!なんで?別に見なくていいじゃん。

東海林:いやなんとなくやっぱね、つけながら。

近藤:おかしいでしょ!筋トレに合わないじゃん!『ロッキー』とかならまだわかるけど。

東海林:ほら、スポーツに興味がないから。ボクシングはスポーツだから興味ないんだよ。

近藤:『ブルー・ベルベット』流して筋トレやってるのって、だいぶおかしいよ。それこそデヴィッド・リンチの映画に出てきそうじゃん(笑)。
しかし『デリカテッセン』とデヴィッド・リンチか。マニアックだね。他にはどんなのが好きだったの?


東海林:あとは『ブレードランナー』。もともとSFが好きで、フィリッップ・K・ディックの小説はほとんど読んでたんだ。中学のときにフィリッップ・K・ディックの没後何年とかの企画展が本屋であって、『ブレードランナー』原作、って書いてあったのね。まだ映画自体は見てなかったんだけど、気になって読んでみたら、なんなんだこの宗教なのか哲学なのかSFなのかわかんない小説は!って思って。


近藤:へー!映画の方が後なんだ。

東海林:うん。高校の時にディレクターズ・カット版が金沢でも公開されて見に行った。映画の中でずっと雨が降ってるじゃない?その日は晴れてたんだけど、見終わって家に帰るまでずっと雨上がりだと思い込んでたのね。映画見てる間に雨降っちゃったんだ、って。で翌日、きのう雨降ったよねって友達に話したら、降ってないよって言われて。もう完全に頭をやられてたよね。雨上がりの濡れた地面を歩いてたって思い込んでた。

近藤:いい話じゃん!そんなに映画に没入することってないよね。

東海林:やっぱ映画館に見に行ってそういう体験をしちゃうと、やめらんなくなるよね。その経験はけっこう大きい。『デリカテッセン』と『ブレードランナー』と、あと大学一年のときに見た『プリシラ』には影響受けたね。


近藤:『プリシラ』か!俺見てないんだよね。

東海林:ええー!なんと!
『プリシラ』は、大学のとき新宿のミラノ座の横にあった小さい映画館で見て、生まれて初めて、終わった後に拍手した。なんか自然とね、拍手しなきゃいけない気がして。

近藤:『プリシラ』はいわゆるドラアグ・クイーンを世間に認知させた先駆けだよね。いまではLGBT系の映画も多いし映画祭なんかも増えてるけど、当時はまだあんまりなかった気がする。

東海林:そうだね。東京国際レズビアン&ゲイ映画祭がはじめてコンペ部門を設けたのが、僕が大学一年のときで、1994年くらいだからね。


『一休さん』にムラムラ

近藤:東海林、バイセクシャルでしょ?それはいつ頃から自覚したの?なんか人と違うな、とか。

東海林:3歳のときに『一休さん』のアニメを見て一休さんが柱に縛られて泣いてるシーンですごい興奮してムラムラしたのを覚えてて。それは忘れられないね。でもその感情がなんなのか、その時はよくわかってなかった。そのあと中学校のときに、同級生の男の子を好きになって。もう確実に好きだってわかって、悩んだよ。オタクだし、SM好きだし。


近藤:それは悩むね。オタクで同性愛でSM好きって、もうお先真っ暗って気になるよね。

東海林:そう、ホントにお先真っ暗。だから、一回自殺未遂はしてる。

近藤:え、ほんとに?中学で?

東海林:うん。そんだけマイノリティ重なっちゃったら、もう生きてくのめんどくさいから。

近藤:そうなんだ。けっこう深刻じゃん。よく生き延びたね。

東海林:そう、そこを生き延びちゃったから、そのあとは楽なもんだけど。

近藤:俺らが中学のころって、バイセクシャルってまだあんまり知られてなかったよね?ゲイだって、まだホモって呼ばれてたと思う。

東海林:そうそう。ゲイっていう言葉自体も知らなかったし、保毛尾田保毛男(※ホモオダ・ホモオ。80年代のとんねるずのコントに登場する、「ホモ」をデフォルメしたキャラクター。)の時代だよね。

近藤:俺だって小学校のとき、普通に保毛尾田保毛男を笑ってたからね。たぶん、ホモホモとか言ってネタにしてたと思う。

東海林:いや、僕も笑ってたもん。とんねるず好きだったしコントは面白いから。でもほんとね、次の日に学校行くのは辛いです。自分も笑ってたくせに。

近藤:俺のまわりにも同性愛のやつがいた可能性だってあるわけだよね。もしかしたら当時の俺の行動や発言で傷ついて、いまも忘れられないかもしれない。それを想像すると・・・当時はそれが笑っていいものとされてて、きっと何も考えず笑ってたんだよね。その後いろいろ考えるきっかけがなかったら、いまだって昔の価値観のままだったかもしれないと思うと、恐ろしいよ。
でも、保毛尾田保毛男もこないだ問題になったし(※2017年9月『とんねるずのみなさんのおかげでした。』30周年記念スペシャル番組で保毛尾田保毛男が復活。差別的表現だと抗議が殺到し、フジテレビは謝罪した。)、時代は変わってきてるな、って思う。大きなところに出て発言する当事者の人なんて、昔はいなかったよね。


東海林:少なくとも、あんまり知られてはいなかったよね。美輪明宏とか美川憲一とかおすぎとピーコとかはいたけど、ちょっと変わった面白い人っていう見え方でしかないので。

近藤:そうだね。そこは役割というかポジションが違うよね。いまは当事者が発言するようになったし、同性愛に限らず、映画業界でも『童貞をプロデュース』問題 (※『童貞をプロデュース』(2007) 出演者の加賀賢三が、松江哲明監督による性行為の強要を告発するが、松江および制作サイドは取り合わず10年以上に渡り上映を続行した。2019年にガジェット通信による加賀氏へのインタビューにより問題が再注目され、当事者の話し合いも持たれるが、松江のその後の対応があまりに酷く問題は収束せず。松江はその後も沈黙を続けている。) が話題になったりとか、深田晃司がハラスメントに対して声明を出したり(※2019年11月、映画監督の深田晃司が撮影現場に蔓延するハラスメントに反対するステートメントを発表した。)とかしてるじゃん。
俺らはいま古い世代と若い世代の中間ぐらいの歳なわけで。ようやく変化が起こってきてるんだから、そこに、言ってみれば乗るか乗らないか、みたいなことがあると思ってるんだよね。古い世代の人たちはもう仕方ないし、若い人たちは最初から変化の中に生きてる。でも俺らの世代は、態度が問われてると思うんだ。俺もデモ行ったりはしてないけど、話はするし、思うことは言うよ。ムカついたらムカついたって言う。そういうことを、意外とみんなしない。でもそれをするのとしないのって、けっこう違うような気がしてる。 

東海林:まあ昔から、政治と宗教の話はしないほうがいいって言われてるからね。それは僕はやっぱ気に食わないなーと思ってて。なんでみんな政治や権利のことに興味を持たずに過ごせるか、っていうのが不思議だね。自分の生活に直結してることのはずなのに、なんで興味もたないの、って。

近藤:そうだよね。それに、権利や差別の問題って、単純にムカつくじゃん。当事者じゃなくても、同性愛差別でも女性差別でも韓国人差別でもあるいはミュージシャン差別でも、なんだってムカつくよ。みんなムカついたら、そう言えばいいだけなのに。


幻の初監督作

近藤:発言するだけじゃなくて、東海林みたいに当事者として作品を作るのは意味があると思うんだよね。それって、映画撮ることで悩みとか葛藤とかが楽になったりする部分もあるの?

東海林:ハタチのときに自分のモヤモヤを作品にしたくて最初の映画を撮ったことで、ようやくいろんな人がいていろんな言葉があるっていうことを知って、すごい楽になったよね。それ以来、マイノリティの葛藤とか悩みっていうのは、あんまり感じなくなった。『ロスト・イン・ザ・ガーデン』っていう映画で、東京国際レズビアン&ゲイ映画祭(※現レインボー・リール)で審査員特別賞をもらったのね。その時、まだまったく映画に関する知識がないから、完パケのテープを送っちゃったんだよ。返却されないっていうのも知らなくて。


近藤:コピーじゃなくてマスターを?マジで!?

東海林:そう。で、おととしレインボー・リールで『老ナルキソス』がグランプリもらったときに、実は20数年前にそういうことがあったんですよ、って言ったのね。そしたら当時スタッフだった人が、こないだ引越しがあってたぶん捨てちゃったんですよね、って。だから僕も記憶の中にしかない(笑)。

近藤:幻の映画だね。かっこいいじゃん(笑)。

東海林:そのときに、『骰子(ダイス)』(※映画会社アップリンクが発行していたアート雑誌)のインタビューと映画祭のパンフレットに答える形でカミングアウトしたんだけど、それを見た同級生の友達に、ウソでしょ?かっこつけてポーズで言ってるでしょ?って言われたのね。真面目に取り合うのバカバカしいなって思って、それからあんまり言わなくなった。

近藤:ポーズでそういうことを言う人、いるの?

東海林:いるんじゃない?まあ商業オカマ、みたいな。

近藤:それは、あんまり気持ちよくないね。

東海林:そうそう。でもそれをまた否定するのもバカバカしいな、と思って。


ゲイムービー

東海林:映画祭に出したのが1994年あたりで、その頃ちょうどゲイムービー・ブームみたいなのがあったんだよ。

近藤:そうなんだ。それまでって、ゲイムービーってどんなのがあった?パッと思いつくのは、『モーリス』とかのイギリス美少年ものだけど。 

東海林:『真夜中のパーティ』とか『ベニスに死す』とか。あとデレク・ジャーマン。


近藤:なるほど。いまはゲイムービーって紹介されたりもしてるけど、昔はデレク・ジャーマンを見ても、俺の中でゲイとか同性愛っていうのはそこまでキイワードになってなかったな。

東海林:そっか。じゃあどういう風に見てたの?

近藤:うーん、普通の映画と同じかな。いわゆる同性愛ものだと、たとえば『ブロークバック・マウンテン』とか、同性愛ものっていうより普遍的に素晴らしい映画だと思うんだよ。


近藤:隠さなきゃっていう葛藤とかは、演技も含めてすごくよく描かれてるけれど、俺はたぶん自分の中のいろんな感情に置き換えて見るわけで。当事者じゃないから当たり前だけど。同性愛を描いてるから、っていうことで見るわけじゃない。

東海林:根本的には人間の普遍的な感情しか描いてないわけだからね。

近藤:ゲイムービーではないけど印象的なのは『アメリカン・ビューティー』。

近藤:あれの最後でさ、隣の家のお父さんがさ。

東海林:ああ、そうそう!めっちゃホモフォビア(同性愛嫌悪)なお父さんが、自分がゲイだって気がつく。あれは悲惨だけど、すごいグッとくるよね。ああいう人って、自分の中に同性愛があることに、だいたいみんな薄々感づいてる。

近藤:それを否定したいために、極端にマッチョな方に・・・。

東海林:そう、マチズモ(男性優位主義)に走っちゃう。だから自分の中にまったくその感覚がない人は、そもそも恐怖でもなんでもない。自分の中にあるから怖いんだよね。いけない、あってはならないって思ってるのに、自分がそうだって気がついた瞬間て、やっぱ怖いじゃない。

近藤:なるほどね。あのシーンはとても印象深いよね。あれはたまらないだろうと思う。

東海林:でも、ああいう人は本当にいるんだよ。アメリカってまだ同性愛の矯正施設があるのね。半分拷問みたいなことをやって人格矯正してしまう、っていう非人道的な施設。たぶん去年かおととしの話なんだけど、そこで所長として同性愛矯正に関わってた人が、実はゲイなんです、ってカミングアウトしたんだよね。

近藤:それすごいね!

東海林:自分がそうなんだけど認めたくないから、他人を矯正しちゃうんだよ。

近藤:うーん、それはせつないね、って、せつないなんて言葉は合わないけど・・・しんどいだろうね。


大学を中退、VJに

近藤:映画祭に出したのって、大学のときでしょ。卒業はしてないんだよね?

東海林:うん。大学辞めて、もともとバイトしてた立川のセブンイレブンで土日の深夜だけ働いて月8万くらい稼いで、あとはVJやってた。VJってまだやってる人が少なくて、それこそ宇川(直宏)さんくらいしかいなかったから、あっという間にいろんなとこに呼ばれるようになったんだよね。


東海林:それで自分でも発表の場がほしいから、下北のBasement Bar でオールナイトのイベントを毎月やるようになって。ひどい赤字のイベントだったけどね。オールジャンルのDJイベントで、DJはいろんな人が交代だけど、VJは自分たちだけで一晩中やんなきゃいけないっていう、地獄のような。

近藤:VJコーナー、とかじゃなくて、ずっと?

東海林:そう。VJは一晩中流してるっていう、もうストロングスタイルで。

近藤:それはすごいね!

東海林:お金にはならなかったけど、いろんな人が面白がってくれて。ちょうどCS放送が始まったころで、テレビのディレクターがイベントに遊びに来て、一緒に番組やろうよ!って誘われたり、アップリンクと繋がって映画の予告編をやるようになったりして、本格的に映像が仕事になりはじめた。だからVFX(※ビジュアル・エフェクツ。CGなどを使った映像の特殊処理。)を仕事にするようになったのって、完全に偶然なんだよ。
当時はCGってまだすごく高くて、へンリーっていう一台3億円くらいするCGマシーンとかで作ってたのね。その時代に、個人で家で合成できるやつがいるっていう噂が業界で広まって。売れる前のアーチストを抱えてる会社が声かけてくれてPVやったり、そこからどんどん仕事になっていった。


バーチャル婚

東海林:そんなこんなで忙しく働いてたんだけど、あるときネットゲームをはじめたのね。それまでメールもやってなかったのに、ゲームやるためにインターネット繋げて。人とも適度な距離が取れるし、あまりにもその世界が心地よすぎて、気がついたら引きこもってたんだよね。2年くらいそうしてたかな。

近藤:フリーで仕事受けながら、引きこもってたわけ?

東海林:そう。当時はまだネット回線が太くなくて、合成する映像素材は直接もらいに行かなきゃいけないから、月に1回だけハードディスク持って都心まで行って、あとは家で作業してた。で、ゲーム内で、地方の19歳の女の子と結婚したんですよ。


近藤:なんなの、それ?同じゲームをやってたってこと?

東海林:そう。僕の主催してたゲーム内のチームに彼女がメンバーとしていたんだよ。もともとは、同じチームにいた別の男が彼女に粘着してたの。会いたい会いたいって。で、彼女に相談されて、彼を遠ざけるために、僕ら付き合ってるからっていうことにして。そしたらそのうち彼女のほうから、ゲーム内で結婚しない?って言われて、面白そうだしやってみよう、って。

近藤:じゃあわりと気軽な感じで。

東海林:もちろん。あくまでゴッコだから。でも、もともと気が合うから同じゲームやってるわけだし、どんどん楽しくなっちゃって。お互いの顔も写メで送ってるし、電話番号も知ってるし。そのうち、彼女が他の人と(ゲーム内で)遊んでることに嫉妬してる自分に気づいた瞬間があって、あこれもうマジじゃん、って思った。ただの恋じゃん。って。

近藤:へー!その子とは、会ったの?


東海林:会った。このままハマってたらどんどん仕事もなくなってくし、ゲームをやめて生活を正さないとダメになってしまうから、最後に彼女に会ってゲームをやめよう、って思ったのね。
で、そのときちょうど新宿ロフトでVJやることがあって彼女を誘ったら、リハ中に隣のビルが火事で燃えてロフトまで煙が降りてきて、イベント中止になったの。

近藤:えーすごいね!じゃあ彼女はVJ見てないの?

東海林:うん。リハは見てたけどね。で、ウチに来て二人でご飯食べて、彼女が『呪怨』が見たいっていうから近所のTUTAYAで借りてきて。で、しよっか?てなったら、彼女はまだ19歳で照れもあったろうし、やだ、って言ったの。そのときなんか、ホッとしたんだよね。断られた、ここで関係を絶ってもいいんだ、って。

近藤:なるほど。戻れる、と。

東海林:そう、戻れる。わかった、って言って何もせず寝て、翌日そのまま帰した。それっきりゲームをやめて、彼女とはそれ以来会ってないし連絡も取ってない。

近藤:いまの話むっちゃいいじゃん。

東海林:そこで肉体的に結ばれちゃってたら、たぶんゲーム辞めれてなかったと思うんだよね。


エロVシネを撮る

東海林:ゲームやめたとき29だったんだけど、ちょうどそのタイミングでエロVシネの監督の話がきて、いまの自分はこれをやるしかない!って思って監督デビューしたのね。それ以来、なんとなくいい具合に繋がってる。

近藤:『喧嘩番長』シリーズとか、他にもけっこういっぱい撮ってるじゃん。
監督仕事は、VFXとはまた別だよね?


東海林:そうだね。30代はホントとにかく仕事でお金稼がなきゃ、と思ってた。最初はVFXがメインだったけど、徐々に逆転して、演出家としての収入の方が増えていったね。

近藤:自分的には、どっちなの?

東海林:演出家だね。VFXは技術職なんで、最新技術に常に目を光らせて取り入れていかないとダメだから。もちろん普遍的な部分もあるんだけど、新しいテクニックだったり機材だったりは常に勉強しなきゃいけなくて、個人でやるにはちょっと辛いんだよね、予算も含めて。情報交換できる仲間がいっぱいいるところでやった方がいい結果が出るから、VFXを一生仕事として続けるんなら、法人化して会社にした方がいいと思う。

近藤:なるほど。
それまでも、監督や演出をやりたいとか映画撮りたい、とか思ってたの?

東海林:20代の頃は、半分あきらめつつも、自分で演出やりたい、っていうのはやっぱずっとモヤモヤしてた。だから最初のエロVシネは、まったく経験ないのに二つ返事でやるって言っちゃったんだよね。クランクインの10日くらい前に監督が降板してまだ脚本もなくて主演も決まってないっていう状態だったから、まあ大変だったけど。結果的にいまにつながったわけだから、よかったよ。 


自分で撮る

近藤:いわゆる自主映画を撮り始めたのって、遅いんだよね?

東海林:19のときに一本撮って、そのあとはずっと撮ってなかったからね。『23:60』(2007年)はCGだし引きこもり時代の自分を総括するためにやったから別として、『ピンぼけシティライツ』が4〜5年前だね。あれは、主演の星能(豊)くんと梅沢(佐季子)さんから、私たちを主役にして短編を撮って、って言われたの。とある映画祭の、役者発信でなにかやろうっていう企画だったらしくて。でも正直、『ピンぼけシティライツ』に関しては、後悔みたいなものがあるんだよね。いちおうやりたいことはやったけど、技術でうまく綺麗にまとめてる。それに気がついたときは、けっこうショックだったね。


近藤:それは、できてから気づいたの?

東海林:できてから、いろんな映画祭に出品して、他の人の映画と見比べたときだね。みんなパッションがあふれてる、というか、やりたいことやってる。俺はプロとして悪い手癖というか技術に囚われちゃってるな、って思ったんだよね。それで、自分の好きなことだけやりたくて、翌年また撮ることにした。
でも、好きなことっていても、じゃあなにやる?ってなって、自分自身に立ち返ったときに、ゲイ・ムービーだ!って思ったのね。いまこそやるべきじゃないかって。で、周りを見渡したらちょうどLGBTブームだったんだけど、どの映画を見ても綺麗な映画ばっかりで、僕が20代の頃に見てたような、例えば『プリシラ』とか『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』みたいな、いわゆるクイアな(=変な)やつがなかった。

近藤:その頃のLGBT映画って、どんなの?『アデル(、ブルーは熱い色)』とか?


東海林:『アデル』とかグザヴィエ・ドランの『わたしはロランス』とかは好きだけど、それとは別に、邦画でいわゆるBL ブームに乗っかった商売的なものがのいっぱいあったんだよ。自分のセクシャリティに悩んでそれを打ち破って、っていう話自体はいいんだけど、どれを見ても綺麗で、クイアじゃない。じゃあ俺がもっとクイアな映画撮ってやる、って思ったのね。で、自分自身もSM好きだけど歳とって体も衰えてるからお店に行きづらい。そういうのをちゃんと映画にしたいって思って撮ったのが『老ナルキソス』。だから、あれも自分のことなんだよね。


作ったら、見てほしい

近藤:『ピンぼけシティライツ』(2016年)、『老ナルキソス』(2017年)、『ホモソーシャル・ダンス』(2019年)、『帰り道』(2019年)、4作ぜんぶ違うよね。


近藤:『ホモソーシャル・ダンス』なんかは、スーパー異色だし。ダンス映画というか、セリフもない。俺は好きだけど。

東海林:よかったよかった。あれはみんなリアクションに困るよね(笑)。

近藤:あれはすごくいいよ。異色すぎて他と比較もできない。
『帰り道』は、自分も音楽やってるから客観的に見れないけど、直球だよね。最初ラフを見た時、東海林こんなシンプルなの撮るんだ、って思ったもん。

東海林:『帰り道』はもうホント素直に、超ストレートに撮った。あれは、国内の評判はいいんだけど、海外に関しては難しいと思う。1940年代の戦時中の日本、っていうのがわかりづらいんだよね。テロップも出ないし背景説明がないから、日本が敗色濃厚で戦争行ったらきっともう二度と帰れない、っていうところまでは理解できないかもしれない。海外もそれなりの数の映画祭にエントリーしてるけど、苦戦するかも。

近藤:すごいよね。自分でそんなに海外に出してる監督って、多くないんじゃない?

東海林:そうかもね。でもやっぱ作ったら見てもらって、上映してる場所に行かないとダメだと思うんだよ。もちろん賞もらえば嬉しいんだけど、それって自己顕示欲というか自信が満たされるだけで、あんまり意味がないような気がしてて。やっぱり現場に行って他の作品と見比べて、そこにいる人の感想を聞いて、それをどう活かすかっていうことを考えないともったいないな、と思ってる。そもそも入選すること自体だって難しいから、入選したらなるべく行きたいな。

近藤:ホントに、それはマジでリスペクトするよ。音楽でも、つくるのはみんな当たり前にやるんだけど、そのあとのことって、事務作業があったり人と会ったり、音楽とは直接関係ないじゃない?だからみんなやらない。いい音楽作ってる人はいっぱいいるけど、作ってもそこで終わってしまうというか、広く聞かれないっていうのはすっごいよくあることなんだよね。


東海林:どこを自分のゴールにするかだよね。作り終わったらゴール、っていう考え方ももちろんあるとは思うんだけど。作り終わったあとのことって、監督の仕事じゃないといえばそうだけど、せっかく見てくれそうな人がいるのに宣伝しないのはもったいないな。

近藤:単純にすごいと思うよ。ホント素晴らしい。やっぱり何かしらアクションしないと、知り合いにしか届かないからね。

東海林:いわゆる小劇場ブームみたいなもんだよね。身内で回しちゃう。正直、いまのインディーズ映画界ってちょっとそうなりそうな空気がある。だから、外にひろげていかないとダメだなーと思うんだ。


これからのこと、MVのこと

近藤:長編撮りたいとか、あるの?

東海林:そりゃあ撮りたいよ!いくつか動いてるのもあるし、企画書出してるのもある。それをなるべく、会社からの依頼ではなく、自分の企画としてやりたい。脚本は自分じゃなくてもいいんだけど。それが次の目標かな。

近藤:いいじゃん!まあ、お金とか具体的なことはいろいろあるかもしれないけどさ、そうやって思って、見えて、やってるっていうのは、すごくいいよ。
いわゆる商業仕事が天職になる人もいるわけだけど、東海林は違ったんだろうね。

東海林:そうだね。やっぱ物足りなかった。けっきょく、やらされてる感が大きくなっちゃったんだよね。この何年間かで、自分の中の作家性を追い求めるしかないっていう覚悟を決めた。でもそれって、怖いことじゃん。作家性を追い求めたがゆえにメシが食えなくなる人なんて星の数ほどいるし。だからこそ自分は、商業監督として技術に寄せた生き方をしてきたのに、けっきょくそこに目を向けざるをえないんだ、っていう。まあうまくいくかは別として、見通しはあるから、あとはそこに向けてがんばればいいかなって思う。

近藤:そんな中で、よくMV受けてくれたよね。

東海林:それはまあ映画の音楽もやってもらったしさ。でもMVに関しては、基本的に知り合いじゃないと受けない。やっぱ特殊だし、技術的なことや制作的な面も含めて、MV業界ってあると思うのね。僕が駆け出しの頃は、丹下紘希さんとか有名なMVの人がいっぱいいて、中途半端に手を出しちゃいけない気がしてた。僕も昔はMVもやったけど、どれも納得いかなかったんだよね。やっぱMVは専門の人に任せた方がいいな、っていうのはいまでもある。

近藤:なるほどね。逆に、よく俺に音楽頼んだなとも思うけどね。だって映画の音楽なんてやったことなかったし。

東海林:そうなの?久しぶりに会って音源聴いたときに、めちゃかっこいいじゃん!って思って。それはもう冗談でもなんでもなく。

近藤:いやそれはもちろん嬉しいよ!でも、音楽頼むって、また一歩先の話じゃん。しかも、そんなに具体的な指示もなかったと思う。

東海林:いちおうイメージの音楽はつけて渡したし、それで十分だと思った。あんまり言っちゃったら、人に頼む意味なくない? ぜんぶ自分がコントロールしちゃったら、自分でやればいい話だから。

近藤:あーそれはわかるな。俺もできるだけ言わないようにしてる。今回のMVも、最終的にできたものは最初に伝えたイメージとはぜんぜん違うじゃん。ここでこの絵を使って、とか具体的に言うこともできただろうけど、そうすると驚きがないんだよね。俺の頭の中のイメージを具現化するだけなら、技術がある人を雇えば誰でもいいわけで、別に東海林じゃなくてもいい。そんなの、なんの意味もない。

東海林:そうだね。それは想像を超えられなかったってことだよね。お互いのやりたいことを、どういう化学変化が起きるか探り合って落しこんでく方がクリエイティブだし、楽しいよね。

近藤:その通りだね。自分の中にないものが出てくるのが、共同作業の醍醐味だよね。いやー、いいのできてよかったよ!

東海林:そうだね。反応が楽しみだよ!

近藤:だね!東海林の長編も、楽しみにしてるよ!




東海林 毅(しょうじ つよし)

蔵野美術大学在学中から映像作家活動を開始し1995年 第4回 東京国際レズビアン&ゲイ映画祭にて審査員特別賞を受賞。『劇場版 喧嘩番長』シリーズなどの商業映画を監督する一方、VFXアーティストとしても映画やテレビで幅広く活動している。
近年、表現の幅を広げるために自主映画にも力を入れ、ゲイの老いと性を描いた「老ナルキソス」(2017)は第27回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭(レインボー・リール東京)でグランプリを受賞したほか国内外の映画祭で10冠を達成。2019年3月には自主短編映画を集めた自身初となる監督特集『偏愛ビジュアリスト』が池袋シネマ・ロサにて1週間行われ好評を博した。
2020年秋に漫画原作の長編『はぐれアイドル地獄変』が公開待機中。

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野田晋平(パライソレコード)インタビュー
− I want to hear a new world −

京都に、一風変わったウェブ・ストアがある。サイト内のカテゴリー分けからして妙だ。「ROCK/POPS」などに混じって、「世界の音楽」「日本の音楽」「奇妙な音楽」といったワードが並んでいる。どんな音楽か、予想がつかない。試聴してみると、どこかヘンテコな音楽が次々と流れてきて、未知の音楽との出会いについ時間が経ってしまう。第一回のインタビューに登場した長久保寛之のソロ・アルバムとも、ここで出会った。of Tropique のアルバムも扱ってくれている。
パライソレコードの野田晋平が東京に遊びに来るというので、さっそくインタビューを申し込んだ。このおかしなサイトを運営してるのは、どんな人物なんだろう。インドアな音楽オタクの風体を想像していたが、待ち合わせ場所に現れたのは、「現場」の匂いがする粋な男だった。新橋の外れの地下、音楽好きに愛されるバー、ARATETSU UNDERGROUND LOUNGE で、話を聞いた。

[取材&写真:近藤哲平]


ダンス甲子園とニルヴァーナ

野田:生まれは福岡で、育ちは京都です。
最初は長渕とかXとか、テレビで流行ってた普通のポップスの聴いてたんちゃうかな。

ー同世代ですよね。僕も爆風スランプとかTMネットワークとか聴いてました。

野田:ああ、そのへんですね!洋楽を聴きだしたのは、中学くらいかな。『(天才・たけしの)元気が出るテレビ』で、ダンス甲子園ってあったじゃないですか。あれのダンスに使われてる音楽が好きになったんです。はじめて買った洋楽のCDは、ボビー・ブラウンですからね。あとMCハマーとか、あの感じです。ダンス・ミュージック、ブラック・ミュージックからヒップホップにハマっていって、スヌープ・ドギー・ドッグとかDr.ドレとか、G-Funk系を聴いてました。

野田:ミュージック・クリップだけを延々1時間半流す、SONY MUSIC TVっていう番組があったんです。それをビデオに録って早送りして、黒人が出てたらそこだけ再生して見てました(笑)。その番組で、ベスト・クリップ特集みたいな日があって、ニルヴァーナの“Smells Like Teen Spirit”が流れたんですよ。映像が気になって見てみたらそれが衝撃で。ホンマに洋楽にのめり込んでいったのって、そこからですね。

ー僕はグランジ(※1990年代にシアトルを中心に興った音楽ムーブメント)ってぜんぜん通ってないんですよ。ニルヴァーナからだと、どう広がっていくんですか?

野田:やっぱりニルヴァーナ周辺の音楽ですね。ソニック・ユースが好きでした。ペイヴメントとかボアダムズとか、当時ローファイ/ジャンクと言われてたものにも影響受けましたね。正当じゃなくてもかっこいい音楽もあるんやな、って。ちょうどBECKも“Loser”で出てきた頃で、フォークやけどヒップホップみたいやし、やのにぜんぜん歌も歌詞もやる気ないってのがわけわかんなくて、すごい新鮮でした。

野田:あと好きだったのはビースティ・ボーイズですね。ルシャス・ジャクソン、ショーン・レノン、ベン・リーとかグランド・ロイヤル・レーベル(※ビースティ・ボーイズ主宰の音楽レーベル)に所属してるアーチストはホンマにぜんぶ、かっこよかったですね。

ー僕、マニー・マーク(※ビースティ・ボーイズのサポートで知られる鍵盤奏者)のソロがすごい好きなんですよ。初期のインストの頃の。

野田:ああ、『Push the Button』とかすごい好きですね〜!あの辺はかっこよかったですね。


ガレージにハマる

野田:そのあと、ジョン・スペンサー・ブルース・エクスプロージョンから、ガレージ(※1960年代のアメリカの若者によるアマチュア・バンドをルーツに持つ音楽ジャンル)にハマりました。

野田:レコードは高くてなかなか買えなかったんですけど、関西ではガレージが流行っててイベントがいっぱいあったんですよ。DJのキングジョー(※森本ヨシアキ。イラストレーターとして、ザ・ハイロウズやクレージーケンバンド、坂本慎太郎のアートワークも手がける。)が、『SOFT, HELL!』 ってフリーペーパーとかビデオなんかを作ってガレージシーンを盛り上げてて、そこでペブルス(※1960年代後半のアメリカのガレージ・バンドの音源を集めた編集アルバム)を知りました。ガレージのB級感が好きだったんです。日本のバンドだと、Jackie & The CedricsやThe 5.6.7.8’s(ゴロッパチ)とかですかね。

ーペブルスまで行くと、どんどん横にも広がっていきますよね。

野田:そうですね。ニルヴァーナの頃はリアル・タイムの音楽を聴いてたんですけど、ガレージにハマってからだんだん昔の音楽を聴くようになりました。大学にビートルズとかクイーンとかデビッド・ボウイなんかの超王道なロックが好きな友達がいて、そいつの家行ってそんなのばっかり聴いてました。そのときはDJもまだやってなかったし、ホンマ聴く専門ですね。
「名盤探検隊」っていう再発シリーズあったじゃないですか?

ーありましたね!あれはよかったですね!

野田:当時、再発のCDがホントによくって。買うCD買うCDぜんぶビックリですよ。ああいうのでシンガー・ソング・ライターやルーツ・ミュージックを聴くようになりましたね。レコードの再発もすごくて、けっこう買いました。

ーバンドはやらなかったんですか?

野田:うーん、断念してますね。というか、楽器買うお金があったらレコード買いたかったし(笑)。もっと後になりますけど、呑み屋のお客さんで集まって、ジョナサン・リッチマンの”Egyptian Reggae”をカバーしたんですよ。なかなか変でかっこよかったと思うんですけど、完成しかけたところで終わりました(笑)。僕はピアニカとリズムボックス担当でした。リズムボックスに「演歌」っていうリズムがあったので、それ使って。もしかしたら、ドサ回りしてた演歌歌手も、これでビール・ケースの上で歌ってたのかな、とか思って、泣けてきましたね(笑)。

タワレコに入る

野田:大学出てしばらく経ってから京都のタワーレコードに入って、13年いました。

ーいいですね!僕もタワレコでバイトするのに憧れました。そうなったら、やっぱ情報もどんどん入ってきますよね。

野田:そうですね。でも、外から楽しそうに見えることって、全体の5%くらいですけどね。たとえば店の音楽も、売れてる音楽だけをかけてますから。好きなものをかけられるわけじゃない。東京の大きなお店はわかんないですけど、京都とか中小規模のところはぜんぶ決まってます。1時間でだいたい1周するんですよ。レディ・ガガとかも最初はいいなと思ったんですけど、半年間ずっとかかりっぱなしだったんで、しんどかったですね。マイケル・ジャクソンが死んだときなんて、1年くらいずっとかかってましたからね。

ータワレコではどんなことをやってたんですか?

野田:バイヤーです。ジャンルごとの売り場に配属されるんですけど、間接的に関わったものも含めると、ほぼ全ジャンルやりました。いちばん長かったのはJ-POPで、ジャニーズあたりのオリコン系から自主制作みたいなインディーズまで何でも扱ってましたよ。

野田:最後の2〜3年はもう管理職だったんで、お金と人の管理しかしてなくって、ずっとバックヤードで仕事してました。気づいたら今日CD触ってないやん、っていう。金銭やシフト管理、電話応対とか、メチャメチャやることあるんですよ。あとクレーム対応ですね。CD聴けない、とか。それは大体お客さんの家のプレイヤーが悪いんですけどね。でも、聴けるってことを証明せなあかんので、プレイヤー持って行って、聴けますよね、って。

ーえ、家まで行くんですか?

野田:行きますよ、来いと言われたら。けっこう多いんですよ。DVDは特に多いですね。あとは買ったけど特典が入ってない、とかね。

タワレコを辞める

ーだんだんCDが売れなくなってきた時代ですよね。

野田:そうですね。あきらかに売れなくなってきてるのがわかりましたね。ヤバいなって思ったのは、会社の目標が「あきらめない」みたいになった時があって。

ーあきらめたくなっちゃうから(笑)。

野田:そうそう(笑)。
当時のタワレコは、潰れないための努力をしてたって感じやったし、ぜんぜん面白くなかったですね。辞める頃は、もうホンマCDが売れなくなってきて、アイドルイベントの即売会とかしょっちゅう外販(※ライブハウスなど、店舗以外での販売)に行ってました。握手券がもらえるからひとり何十枚も買うっていう。売上げとしては大きいですからね。朝9時に行って夜12時に帰るみたいな生活がずっと続いて、休日も行ったりしてましたし、しんどかったです。そんな状況やって、社員の早期退職を募ってて、それで辞めたんです。その時は、店長クラスの人とかまで、けっこう大量に社員が辞めたんですよ。

ー規模縮小みたいな感じだったんですか?

野田:そうですね。当時まだアナログが売れ出すなんていい話題もなかったですしね。

パライソレコード

野田:ほんで辞めてすぐ、Carole KingってBARをやってるバンドマンの友達から、ウチにレコード置かへん?って話があったんで、パライソレコードって名前で委託販売を始めたんです。いつかレコード屋やりたいなって思って、タワレコいるときから販売用に集めてたんですよ。
なんやかんやしてるうちに、京都の100000t(じゅうまんとん)アローントコっていうレコード屋が、うちの店にも委託で置いてええで、って言ってくれて。Carole Kingの方はロック好きのお客さんが多いんで王道系にしてたんですけど、100000tの方はいまのパライソっぽいラインナップにして、そしたらけっこう売れたんですよ。それが2014年ですね。
2年くらい前からウェブに移行して、委託はほぼやめました。けっこう常連さんも増えてきて、いまウェブ・ショップとしては3年目ですね。

ーウェブだと、お客さんとのやりとり、コミニュケーションてどうなんですか?店舗みたいに直接話せるわけじゃないですよね。

野田:うーん、あんまりないですね。だからたまにメールくれる人がいると、やっぱ嬉しいですよ。やりがいになりますね。お客さんに新しいレコード教えてもらうこともあります。あと、知らないものでも買ってみるっていうお客さんもけっこういますね。

ーお店のカラーが明確だし、パライソが推してるから、っていうお客さんもいるでしょうね。いい意味で、すごく趣味性の高いラインナップだと思います。

野田:趣味性しかないですね。それこそ、タワレコ時代に嫌だったことはやってないです。さっき言った、全体の5%しかない楽しいことをいまやってる感じですね。

ー情報収集はどうしてるんですか?

野田:タワレコにいた当時はとにかく情報にあふれてたし、サンプル盤なんかもとりあえず聴きまくりました。DJもしてたんで友達から教えてもらったり、本・雑誌もよく見てたけど、最近なんかはやっぱりネットで知ることが多いですね。YouTubeでたまたま聴いて知ることもあるし。レコードのジャケ買いもまだしますよ。見たことないやつを買ってみたりするんで、失敗もしますけどね(笑)。
昔から、レコードを探すのが好きなんですよ。聴くのが好きな人もいますけど、自分は買ったり探したりが好きで、そこでほぼ完結してるかもしれないですね。

野田:DJでも、いらんレコードたくさん買ってる人の選曲の方が面白い気がします。失敗してる人の方が、深みがある。いまはレコードも、知ってて買う人が多いじゃないですか。100%保険付きで買ってる人のDJや音楽って、やっぱりあんま面白くない。ウチで取り扱いしてるアーチストは、みんな音楽好きですよ。やってる音楽以外のキーワードもメチャメチャ出てくるし、ああけっきょく好きなんやなーって。

ー新しい人もけっこうチェックしてるんですか?

野田:しますね。ライブはそんな行けてないんですけど、ネットとかで見て気になったら、自分から連絡することが多いです。買取はやってないんで、仕入れについてはぜんぶ自分でやってますしね。

ー買取してないと、値段付けが大変じゃないですか?自分で買った値段にさらに上乗せしないといけないわけですから。

野田:そうですね。でも、ウェブ・ショップなんで、家賃もないし年中無休24時間営業みたいなもんだし、諸経費を考えると、普通の店が儲けから経費引いたのと変わらないんじゃないかなと思ったり。カタログも、定番化してるのも含めて、増え続けてますから。売り切れたのもぜんぶ残して聴けるようにしてますしね。レコード売るだけじゃなくって、いろんな音楽があるっていうのが伝わればいいなと思ってて。

ーそれは素晴らしいですよ!やっぱり聴かないとわかんないですからね。

海外の話

ー海外にもニーズがありそうですよね。

野田:海外からの問い合わせもたまにありますよ。つボイノリオがどうしてもほしい、ってメールが来たことがあります(笑)。

ーまたマニアックですね(笑)。

野田:海外は、ドルがめっちゃ安い頃に、eBay(※海外のオークション・サイト)でペルーとかから7インチ(※シングル盤レコード)をメチャメチャ買いましたね。あっちって、海外発送する時に身分証明を貼り付けないといけないらしいんですよ。ダンボールに免許証みたいなののコピーが貼ってあるんです。なかなか発送されなくて連絡したら、その手続きが大変でって言われました。けっきょく届かなかったこともありますけど(笑)。

野田:いまは、タイなんかでも外国人がいっぱい買いにくるようになって、レコードの値段が上がっちゃってるみたいですよね。レア・グルーヴ的なもんて、やっぱりそれなりに値段も高くなるし、そういうのはウチの店とちゃうかな、って思うんです。DJ向きの店とかでもないし、あんまり海外買い付けって感じじゃないのかな、って。

ー海外に買いに行ったことはあります?

野田:タイとメキシコには行きました。メキシコは、京都でDJしてるときにメキシコ人に喋りかけられて遊びに来いって言われたんで、何も考えず行ったんですよ。向こうでDJもやりました。そいつが、「日本で有名なDJがくるから」って嘘ついて(笑)。けっこう人集まって、面白かったですね。
レコードは、商店街のフリマみたいな店でいっぱい買いました。おじいちゃんが計算できへんから、隣の店の兄ちゃんに計算してもらって(笑)。桁が上行くと計算無理や、みたいな雰囲気でしたね。普段、そんないっぱい買う人なんていないんでしょうね。ブートのCDR屋もすごいいっぱいあって、CDを正規で買うような国じゃないんだなーって思いました。これ欲しいって言ったらその場で焼き始めましたからね(笑)。
あと面白かったのは、電車に物売りが乗ってくるんですよね。演説してるだけのおばあちゃんとか、背中にスピーカーしょってCDR売りにくるやつとかいて。

ーああ、来ますよね!僕が昔メキシコ行ったときも、二人組の少年がギター抱えて電車に乗ってきて、「Love Me Do」を歌うんですよ。メキシコのティーンもビートルズなんだ!って、驚きました。

独自のラインナップ

ーカテゴリー分けが独特で面白いですよね。「奇妙な音楽」とか「ニッチポップ」とか。個人的に、ドクター・バザーズ・オリジナル・サヴァンナ・バンドのコーナーがあるのが気になりました。

野田:好きなんですよ(笑)。ウチのお店のコンセプトが、あの音楽に詰まってると思ってて。

野田:米米クラブもサヴァンナ・バンドを意識してたんですよね。加藤和彦とか、細野晴臣もYMOをはじめる前にかなり聴いてたらしいし、裏方で作ってるような人が影響受けてるんじゃないですかね。

ー立花ハジメの『H』も推してますよね。僕もあれ大好きなんですよ。ちょっと前にやってたLow Powersもよかったし、すごくセンスある人ですよね。

野田:立花ハジメもいいですよね。あとプラスチックスの中西俊夫とかね。

野田: サヴァンナ・バンドなんかはタワレコ時代によく通ってたジョアンっていう呑み屋で教えてもらいました。その店自体がサヴァンナ・バンドの世界みたいだったんですよ。南国風やけどフェイク感があって、すごいエキゾチックで。そこの大将にはいろいろレコードもいっぱいもらったし、知らん音楽もメチャメチャ教えてもらいましたね。

ーニューオリンズ系もけっこうマニアックですよね。タッツ・ワシントンや、あとA.J.ロリアとか。

野田:A.J.ロリアは、「ワイルドサイドを歩け」をカバーしてて、モンドっぽい流れで知りました。
( http://paraisorecords.com/?pid=133206591 )
ニューオリンズはやっぱり細野晴臣の影響はでかいですね。トロピカル三部作はメチャメチャ聴いたし、そこから広がったのものも多いです。あれでカリプソや東南アジアの音楽も聴くようになったし。


「まんま」やらない

ートロピカル三部作がいまのパライソのラインナップにつながるのは、すごく納得できます。サヴァンナ・バンドもそうですけど、フェイク感というか、生真面目になりすぎないのがいいんですよね。あの三部作はオブトロのアルバムを作るときにもけっこう意識しました。

野田:オブトロは、デジタルなのものまでミックスされてるのがいいですよね。ラテンぽい音楽をやると、そのまんまやる人が多いじゃないですか。どっぷりその文化に浸かっちゃうみたいな。

ーそうなんですよねー。もちろんかっこいいバンドもいるんですけど、みんな特定の音楽しか聴いてなくて、それ以外のものを受け入れないっていうのが嫌で。東京のシーンってほぼそんな感じなんですよ。

野田:全国的にそうじゃないですかね。ヴィンテージ感を大事にするのはいいんだけど、でもなんか、そこだけで終わっちゃうんですよね。やっぱ、ミックス・センスのある人が好きですね。細野さんやサヴァンナ・バンドや、マルコム・マクラーレンなんかもそうやと思うし。「まんま」やらない。

ーパライソのラインナップも、直球ものって少ないですよね。

野田:もちろん、嫌いなわけじゃなくって、昔はそういうのぜんぶ聴いてやるっていうぐらいでしたけどね。まあ、王道系なら他で買えばいいし、ウチではそういうんじゃないのを聴いてほしいっていうのはありますね。
『モンド・ミュージック』って本があったじゃないですか。載ってるレコードももちろん好きなんですけど、考え方が好きなんですよ。かっこよくなくても、かっこよく見せれるっていうか。「くくり」さえ作れば、埋もれたものにもスポットを当てられるっていう。ウチの店で他にないジャンルを作ってみたりしてるのも、あの本の影響はありますね。

アイドルはウンコしない

ーパライソの品揃えって、僕の考える「エキゾチック」の感じにすごく近いんですよ。マーチン・デニーとかの、いわゆる音楽ジャンルとしての「エキゾチカ」も好きですなんですけど、音楽面より実はもっと感覚的な部分がポイントのような気がするんです。

野田:アイドルはウンコしない、ってあったじゃないですか。ああいうの信じてるのって、すごいエキゾチックな気がするんですよ(笑)。間違ってるんだけど、自分の中では成立してしまっている。

ー間違ってる、っていうのはキーポイントかもしれないですね。

野田:昔の人でも、たとえばレス・ポール(※有名なギブソンのギターを生み出したギタリスト。多重録音などの実験を行い、メリー・フォードとのコンビで数々のヒットを飛ばした。)なんかも、こういう音を出したいっていうのが頭の中にあって、でもそれ出せへんから、自分で楽器に変な細工してなんとか近づけようとしたりして。そういうのがエキゾチックやと思いますね。

ーなるほど。レイモンド・スコット( ※ 1930年代より活躍するアメリカの作曲家、発明家。カトゥーン番組などの音楽を担当するかたわら、自作楽器を用いてさまざまな音楽的実験を行った。電子音楽のパイオニアと呼ばれる。)とかもそうですよね。自分で楽器まで作っちゃって。ビートルズだって、スタジオでいろんな音の実験をやってたわけだし。

野田:そうですね。写真で見た観光地に実際行ってみたらアレ?っていう感覚ってあるじゃないですか。そういう、現実とズレて自分の中の想像で出来上がってしまった世界が、エキゾチックなのかな、って。

ーなるほど。パライソのサイトも、カテゴリー分けからして野田さんの想像の産物なわけだし、だからこっちも想像力を刺激されて、新しい世界が開ける。ジョー・ミーク(※1960年代に活動した鬼才音楽プロデューサー。1967年に自殺。)風に言えば “I hear a new world” 的な(笑) 、そういう体験ができるウェブ・ショップって、なかなか貴重だと思います。

野田:ありがとうございます。ジョー・ミーク、もちろん好きですよ(笑)。

ーパライソレコード、これからも期待してます!

野田:はい。楽しんでもらえたらと思います。試聴だけでもいいんで、ぜひ!


野田晋平

思春期にテレビで観たニルヴァーナ“Smells Like Teen Spirit”の衝撃から音楽にのめり込む。 大学卒業後タワーレコードに13年勤務しバイヤーなどを経験。退社後の2014年「パライソレコード」の名前で BARやレコード屋などに委託販売を開始。2016年からは魅惑のオンラインショップ「パライソレコード」として ウェブでの販売に移行。世界中の魅惑サウンドを探し求め、中古レコードをメインに(ほぼ)毎日新入荷を更新中。

http://paraisorecords.com/

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シンムラテツヤ インタビュー
−Fakeな音楽が世界を救う–

「エキゾチック」という言葉で浮かぶのは、熱帯や南国の景色だ。ジャングルの密林、浜辺のヤシの木、爬虫類やカラフルな鳥たち。でも、もし南国に移住したとしたら?それらの景色に見慣れたあとでも、はたしてエキゾチックと感じるだろうか?あるいは、南国生まれにとってのエキゾチックとは?実はきっと、エキゾチック=南国じゃない。それは、未知のものへの驚き、恐れ、羨望なんじゃないだろうか。
シンムラテツヤは、ラテンでもトロピカルでもない。ロックだ。ロックだけれど、その外側にある未知のなにかを、いつも手探りしている。それを「エキゾチック」と呼んでもいいはずだ。
金曜の夜、東高円寺のCafe Schwarze Katze。天井まで奇妙なモノで埋め尽くされた様は、これもまたエキゾチック。ベルギービールを片手に音楽の話題は弾み、さまざまなミュージシャンの名前が飛び交うインタビューとなった。

[取材&写真:近藤哲平]

   

ポールとジョナサンが好き

ー新作カセットの『めいろ』、めちゃくちゃいいですね!

シンムラ:ホントですか?誰もいいって言ってくれないんですよ。

ーいや、これ最高じゃないですか!変態音楽好きにはたまらないですよ。日本より、ヨーロッパとか海外で受けるんじゃないですか?
このアルバム、ギターも入ってないし、楽器編成からしておかしいですよね。使ってる楽器は、ベースと、あとリズムを鳴らしてるのは何ですか?

シンムラ:これは、ラテンのパーカッション・マシーンです。楽器は基本的にその2つだけですね。パーカッション・マシーンを適当に鳴らして、それに合わせて適当にベースを弾いて、最後に適当に歌を重ねる、っていうやり方で作りました。

ーベースがポール(・マッカートニー)っぽいなと思う瞬間もあります。やっぱりビートルズ好きなんだろうな、って。

シンムラ:マジですか!いちばん好きなベーシストですね。

ーはいからさん(※2006年より活動する、3人編成のロック・バンド)のヘルプでベース弾いてって聞いたときは驚きました。ソロ・アルバムでもいろんな楽器をひとりで演奏してるし、最近では録音の仕事もしてるし(※CHILDISH TONESのシングル『恋のホワン・ホワン』)、音楽もいろんなの聴いてるし、いわゆるミュージシャン肌じゃないところにすごく共感します。

シンムラ:最初に会ったときも、僕はPAやってましたからね。塚本(功)さんのライブで。そのあと連絡もらって飲みに行って、ジョナサン・リッチマンの話とかしましたよね。

ーそうそう。ジョナサン好きな人ってあんまりいないから、嬉しかったですね。

シンムラ:僕のまわりにはけっこういますよ。最近は若い人にも人気あるみたいで、アルバムも再発されたりしてるんですよね。

ーへー!ちなみに、シンムラくんはどうやってジョナサンを知ったんですか?

シンムラ:たまたまYouTubeでライブ映像を見たんです。“I’m a Little Dinosaur”を、ギター持たずにずっとはいつくばって歌ってて、それがもう最高で。

ーこれヤバイですね!ホント、変な人ですよね。
シンムラくんが「ジョナサン・リッチマンを聴く会」ってイベントをやったとき、わざわざ地方から来た人がいたって言ってましたよね。まさにマニア向けのミュージシャン。シンムラくんの音楽も、好きな人には刺さるっていうマニア向けの要素がすごくありますよね。でも、ポップで聴きやすいし、いわゆる普通の人にもアピールするのが素晴らしい。

イエモンが好き

シンムラ:生まれは、石川県金沢市です。小・中のころはそんなに音楽も聴いてなくって。嘉門達夫が好きでした。

ー嘉門達夫!僕も大好きでした。でも、そこから音楽にハマるっていう感じじゃないですよね。

シンムラ:そうですね。高校入るまではずっと野球をやってて、音楽に触れる機会もなかったんですよ。高校のときにイエモン(=THE YELLOW MONKEY)をすごい好きになって、ギターやりたいなと思ったんです。

シンムラ:それでさっそく、(週間少年)ジャンプのうしろのページに載ってたギター入門セットを買いました。「明日からすぐ弾ける!」みたいなコピーのやつ。ギターとアンプとシールドがついてて、2〜3万円くらいだったかな。

ーへー!あれを買った人にはじめて会いましたよ!

シンムラ:え?みんなあれで始めるんじゃないんですか?

ーいや、違うと思いますよ(笑)。

シンムラ:そうですかねー・・・。そのギターは誰かにあげちゃったんですけど、持っておけばよかったですね。エメラルド・グリーンのトラ柄で、Naisonってメーカー名がGibson(※世界的に有名な老舗ギター・メーカー)と同じ書体で書いてありました。まあ、いま使ってるのが9万円くらいのビザール・ギター(※独特の個性を持つB級ギターの総称)なんで、そんなに変わんないですけどね(笑)。
バンドもはじめたんですけど、大学出るまではコピーしかやってなかったんですよ。音楽サークルにも入らずに、週一くらい仲間で集まってイエモンのコピーをやってました。イエモンは曲もいっぱいあるし、飽きませんでしたね。とにかくコピーが楽しかったんです。

ー大学4年間ずっとコピーだけって、めずらしいですね。普通みんなオリジナルをやるじゃないですか。
そうすると、いわゆるバンド・マンとしてのスタートは、もっと後なんですね。

シンムラ:そうですね。大学出てから養護学校で2年くらい働いてたんですけど、コピー・バンドも続けてたんです。就職したくらいからやっと少しづつオリジナル曲を作りはじめて、「あすなろう」としてライブもやるようになって。

ーそれまでも、コピー・バンドのライブはやってたんですよね?

シンムラ:いや、やってなかったんですよ。

ーえ!じゃあ人前では演奏してなかったってことですか!?

シンムラ:はい。みんなでスタジオに集まってコピーして楽しい、っていう。ずっとそればっかりで、ライブなんて恐れ多い、って思ってました。オリジナルやるようになったのも、特にきっかけとかなかったんです。なんとなく、そろそろやってみようか、って。曲は僕が書いてたんですけど、最初の頃は殺伐とした暗い曲ばっかりでしたね。

あすなろう〜ソロ活動

シンムラ:金沢で2年くらい活動してたんですが、やっぱり東京で勝負してみたいな、と思うようになったんですね。そしたらメンバーのうち2人は金沢に残るって言って辞めちゃって、僕ともう1人で出てきました。二人で同じ部屋に住んで、こっちでメンバー募集してライブハウスに出るようになりました。

ー音楽性からして、JAMとかレッドクロスあたりに出てたんですか?

シンムラ:そうですね。あとUFO CLUBでもよくやりました。でも、なかなかメンバーが定着しなかったんですよ。一緒に出てきた奴もけっきょく辞めちゃって。いま考えると、厳しくやりすぎたんでしょうね。合宿も行ってましたから。銚子に民宿みたいな施設があって、24時間音が出せてバンドの設備もあるんですよ。そこに行って一睡もせずに2日間ずっと演奏するっていう。

シンムラ:けっきょく、東京出てきてから9年くらいやってアルバムも3枚出したんですけど、いろいろ行き詰まっちゃって。もうバンド辞めようかなって思って、試しにひとりで演奏して録音してみたんです。それが2015年に出した『やわらかマシーン』っていう7インチです。

ーおお、ソフト・マシーン(※1960年代より活動する、イギリスのプログレッシブ・ロック・バンド。)!変な音楽に寄ってきましたね(笑)。そういえばケヴィン・エアーズ(※初期ソフト・マシーンに在籍したシンガー・ソング・ライター。)の話でも盛り上がりましたよね。

シンムラ:ケヴィン・エアーズは大好きですね!

シンムラ:その7インチがわりと好評だったんで、そのままソロでやってみようと思って、最初のアルバム『PLAYBOY』を作りました。これは録音もぜんぶ自分で、演奏もほぼ一人でやりました。

ー録音はその前からやってたんですか?

シンムラ:いや、やってなかったです。ソロをきっかけに始めました。

ーカセットMTR(=マルチ・トラック・レコーダー)で録音するのって、めずらしいですよね。

シンムラ:そうかもしれませんね。カセットMTRで録ると、なんか生々しい音になるんですよ。Beckも”Loser”とかで使ってるし、独特のローファイ感が好きなんです。

シンムラ:『PLAYBOY』は、もともとデモ・テープのつもりで作ったんですけど、できてみたら意外と良かったんでそのまま出すことにしました。
宅録なんで、バス・ドラムの代わりに辞典を手で叩いてみたり、いろいろ実験もできて面白かったですね。リズム・ボックスを使い始めたのもこのときからだし、ようやくやりたいことが見えた感じがしましたね。

ーライブはどうしてたんですか?

シンムラ:『PLAYBOY』の音をライブで再現しようと思って、それまでに知り合ったミュージシャンに声をかけました。それがそのままジョンとヨーコのロック・バンドとして続いてます。あすなろう時代とは、バンドとしての音も変わりましたね。

ーたしかに、あすなろうに通じるルーツ・ロックの感じはあるけど、もっと雑多ですもんね。なんでもありというか、変態感が前面に出てる(笑)。ここまで雑多な音楽性は、バンドでみんなで作るのだと難しいかも。ソロならではのサウンドかもしれませんね。

Beckが好き

ーちなみに、イエモン以降はどんな音楽を聴いてたんですか?

シンムラ:実は、大学を出るまでそんなにたくさんは聴いてなかったんですよ。教員時代にレディオ・ヘッドとかの洋楽を聴くようになって。音楽にハマったのは、Beck の”Odeley”がきっかけだと思います。(Beckが)サンプリングしてる元ネタや影響受けたミュージシャンをチェックして、録音の仕方や曲づくりの仕方まで、すごく影響を受けました。
そこから60〜70年代の洋楽を聴くようになりました。Them(※1960年代に活動した、イギリスのロック・バンド。ヴァン・モリソンが在籍した。)が好きでしたね。Beckも”Devils Haircut”でサンプリングしてるし。

シンムラ:キンクス(※The Kinks。1960年代より活動するイギリスのロック・バンド。雑多な音楽性が特徴。)も大好きです。『サムシング・エルス』『ヴィレッジ・グリーン・プリザヴェイション・ソサエティ』とか、もちろん『マスウェル・ヒルビリーズ』も。

シンムラ:ビートルズを聴きだしたのもそのころです。でも最初はそこまでいいと思わなかったんですよね。どっちかっていうと(ローリング・)ストーンズの方がかっこいいと思ってました。いまは逆ですけど。

ー日本のバンドでは、どんなのを聴いてました?

シンムラ:The Zoobombsとくるり。あとSUPERCARやNUMBER GIRLが当時は盛り上がってて、よく聴きました。

シンムラ:実は、昔のバンドはあんまり知らないんです。いろんな人から大瀧(詠一)さんぽい、って言われるんですけど、いまだに聴いてないんですよね。

ーへー!それこそ、はっぴいえんどとか好きなのかと思ってたので意外です。

オールディーズが好き

ーヴェルヴェッツ(※ヴェルヴェット・アンダーグラウンド。1960年代に活動したアメリカのロック・バンド。ルー・リードが在籍した。)のカバーもやってますけど、アメリカのバンドはどうですか?

シンムラ:あんまり聴いてなくって。ヴェルヴェッツを聴くようになったのも最近なんです。

ーそれも面白いですね。アメリカの、いわゆる70年代ロックは聴いてないんですか?それこそジミヘン(※ジミ・ヘンドリックス)とかジャニス(・ジョプリン)とか。

シンムラ:それが、いまだにどう聴いていいのか、わかんないんですよね。ザ・バンドやボブ・ディランとかも、いまいちピンとこなくって。ラヴィン・スプーンフルは好きですけど、自分から聴きたいと思うほどじゃないんです。好きで聴くのは、ビーチ・ボーイズくらいですかね。

ーまた意外ですね。シンムラくんの好きな、たとえばNRBQやジョナサン(・リッチマン)って、アメリカン・ミュージックを煮詰めたような音楽じゃないですか。

シンムラ:自分でも不思議なんですよ。ジミヘンやジャニスを聴いても、そんなにハマらなくって。なんでなんでしょうね?

ーうーん、50’sやオールディーズが好きかどうか、じゃないですかね。ストーンズやジミヘンに憧れてロック・バンドやってるタイプの人は、オールディーズはあんまり聴かないと思うんですよ。オールディーズはまた独特で、スキニー・ジーンズや長髪の世界観とはちょっと違う。

シンムラ:なるほど!なんとなく分かった気がします。僕はバディ・ホリーも大好きですし。

ーああ、バディ・ホリーはわかりやすいかも。僕も大好きです。
NRBQやジョナサンも、オールディーズをすごく好きな人たちだと思うんですよ。50年代くらいってまだミュージシャンと作曲家が分かれてたじゃないですか。他人が書いた曲を演奏するわけで、だからエゴが希薄なんですよね。「俺を聴け!」っていう自己表現じゃない。「俺」より「音楽」の比重の方が高いっていう感じ。ジミヘンは「俺」が強いですからね、よくも悪くも。

シンムラ:ああ、そうかもしれませんね。NRBQがやってることとか、オールディーズの感覚に通じる気がします。

変な人が好き

シンムラ:アメリカのミュージシャンだと、あとはアウトサイダー的な人が好きですね。(フランク・)ザッパがプロデュースしたワイルドマン・フィッシャーとか。ダニエル・ジョンストン、ジャド・フェア、シャグスとか。あとタイニー・ティム!

ータイニー・ティムは最高ですね!でもこういうの好きな人って、ミュージシャンよりリスナー側に多いんですよね。だって、音楽的に得るものもないし(笑)。

ーブラック・ミュージックはどうですか?シンムラくんにもカントリー・ブルース的なアプローチの曲がありますけど、好きなブルース・マンとかいます?

シンムラ:ミシシッピ・ジョン・ハートですね。あとロニー・ジョンソン。

ー好きなブルースマンとして最初にミシシッピ・ジョン・ハートの名前を出す人もあんまりいないと思いますよ。やっぱ変わってる(笑)。

シンムラ:そうですかね?あとハウンド・ドッグ・テイラーが好きですね。

ーああ、ハウンド・ドッグ・テイラーは問答無用にかっこいいですね!

ー話を聞いてると、シンムラくんの場合、特定のジャンルを掘り下げるっていうよりもかなりランダムに聴いてるみたいですけど、情報はどうやって得てるんですか?

シンムラ:All Musicっていうサイトですね。たとえば「Beck」って打ち込むと、Beckが影響を受けたミュージシャンやフォロワーの情報とかが出てくるんですよ。英語のサイトだし、文章は読まないで人名とアルバム名だけ拾うんですけど。あれでかなり勉強しましたね。

ーそうやって一人で黙々と音楽を探すのって、すごい共感できます。僕の場合は、ミュージック・マガジンとレコード・コレクターズのバック・ナンバーでしたが。ネットだとキイワードからキイワードにどんどんジャンプしていって、横の繋がりの説明がないから、情報がより雑多になるのかもしれませんね。

『Fake Flight』

ー『Fake Flight』は傑作だと思います。「フェイクな空の旅」っていうタイトルからしていい。変さとポップさのバランスが絶妙です。あれも一人で作ったんですか?

シンムラ:ありがとうございます。『Fake Flight』は評判いいんですよ。これも前作と同じで、一人でカセットMTRで録りました。

ー僕は「でっちあげヘブン」がすごく好きなんです。イントロのリズム・ボックスの音色からして最高だし、ギター・ソロの入るタイミングや、後半のブレイクのタイム感とか、本当に素晴らしい。あらためて聴くと、ギターの感じもちょっとオリー・ハルソール(※ケヴィン・エアーズのバンドのギタリスト)っぽいですね。あと、ワン・カットで撮ってるようなMVもいい。

シンムラ:あれは、鍵盤担当のラビ・ニカルロッチャが、アイディアから撮影・編集までぜんぶやってくれたんです。途中で切らずに、ワン・カットで撮ってるんですよ。カメラがぐるぐる回ってるあいだに、後ろの死角で人が入れ替わったりして。

ーへー!彼は、プレイもいいですよね。それこそジョナサンのバンドとかにいそうな感じで。なかなかああいうシンプルなプレイのできる人はいませんよ。本業は画家で、しかもかなり正統派っていう。やっぱり、ミュージシャン肌じゃない人のほうが面白いんですよね。上手いミュージシャンはいくらでもいるけど、面白い人、センスある人は、なかなかいない。

シンムラ:そうですねー。

フェイクが好き

ーオブ・トロピークの「トロピカル」「エキゾチカ」って、ラテンの人たちの使うニュアンスとは違うんですよ。それよりも、シンムラくんがやってるようなことに近い。去年『La Palma』を出したときに「架空の南の島」っていうキイ・ワードを設定したんですが、大事なのは「架空の」っていう部分なんです。フェイクな感じ、ニセモノっぽい感じが、僕の考えるエキゾチックなんですね。べつに南じゃなくって「架空の北の島」でもいいんです。でも、そういうフェイクな感覚を共有できる人って、意外といないんですよね。

シンムラ:そうですね、いないですねー。フェイクの面白さって、なかなか伝わらないんですよね。僕もブルースの人とやると、なんか違ったりします。

ーああ、なるほど。僕もブルースは好きですけど、ブルースやってます!っていう人とは距離を感じてしまいます。音楽を、フレーズとか形式でしか聴いてないんじゃないかって思っちゃうことが多いんですよね。形式でしか聴かないから、そこに当てはまらない他のジャンルの音楽は聴けない。でも、本当に大事なこと、って、形式じゃないと思うんです。どんな音楽でも、形式のうしろの奥のほうに表現の核になるものがあって、それに心が動かされるんですよ。だから、形式で聴かない俺のほうが本当はわかってるんじゃないか、って思うこと、ありますもん。

シンムラ:わかります!

ーまあ、だいぶ偏った意見ですけどね(笑)。でもこういう考え方に共感してくれる人も、世界中探せばそこそこいるんじゃないかって思うんですよ。っていうか、いてくれたら、世界はもっと平和になるのになー、なんて(笑)。だって、ジョナサン・リッチマンを好きな人に、悪い奴はいないですからね!

その通りですね!
  
    

シンムラテツヤ

ラジカセ・リズムボックスを相棒にロックンロールを鳴らす。レコーディングは全楽器の演奏からミックスまで一人で行う。鳴らす音はアヴァンギャルド音楽からみんなのうたまで。不思議な音と不思議な歌詞をかけ合わせると現実的な理想のポップミュージックになることを証明し続ける。予定。

https://shinmuratetsuya.wixsite.com/home

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八木橋恒治(of Tropique)インタビュー
−そっくりじゃつまらない−

Gentle Forest Jazz Band をはじめ、スイング・ジャズ系のギタリストとして知られる八木橋恒治。実はその音楽性は幅広く、ルーツ・ミュージック全般からワールド・ミュージック、テクノから実験音楽まで網羅していることは、意外に知られていない。それまでの活動とは全く音楽性の異なるオブ・トロピークへの参加に驚いた人もいたはずだ。 
常に新しい音楽への好奇心を持ち、その都度ハマっている音楽について嬉しそうに話す顔は、ミュージシャンというより生粋の音楽ファンだ。この秋から神戸に拠点を移すというその前に、知られざるバックグラウンドを探るインタビューを敢行。多くのミュージシャンに愛される吉祥寺の名店World Kitchen BAOBAB にて、好物のベトナム産ウォッカを片手に、話を聞かせてくれた。

[取材・写真:近藤哲平]


エア・ドラム期

八木橋:ドラムがやりたかったんだよね。小学校で鼓笛隊のクラスがあったんだけど、音階がある楽器はぜったいできないって思ってスネアを担当して。

ーすごい理由ですね(笑)。音楽はもう聴いてました?

八木橋:まだその頃は、松田聖子とか薬師丸ひろ子とか、テレビで流れる歌謡曲を聴くくらいだった。意識して(音楽を)聴き始めたのは、中学になってからだね。たまたまラジオから洋楽が流れてきて、それまで聴いてた歌謡曲とあまりに違って、ビックリして。

ーどんな曲ですか?

八木橋:アーハの『Take On Me』。すごく流行ってたんだよ。

八木橋:それからは、ラジオで流れる音楽を片っ端からカセット・テープに録って繰り返し聴くようになって、そのうちハード・ロックに出会ったんだ。ヴァン・ヘイレンとか、ドラムがやたら激しくて、これはなんだ!と思って、エア・ドラムをやるようになった。

ーエア・ドラム?自分の部屋でですか?

八木橋:そう。音楽に合わせて。そのうち、中学の同級生がドラム・セットを貸してくれて、家でドラムを叩きはじめた。田舎で、隣と離れてるからね。

ーじゃあ最初の楽器はドラムなんですか?

八木橋:いや、その前に、ドラム買ってほしいって親に頼んだら、代わりにどっかからフォーク・ギターをもらってきてくれて、仕方なく弾いてた。なぜか吉田拓郎の教則本があったけどあまり読まずに、ほとんど自己流でやってたね。最初はコードなんて弾けないじゃない?ベースなら単音だから簡単かな、と思って、曲に合わせてギターでベース・ラインを弾いてたんだ。ドラムとかベースとか、リズムに興味があったのかもしれない。

ー家でひとりでドラム叩いてギターでベース・ラインを弾いてるって、変わった子供ですね(笑)。

ハード・ロック~ロフト・ジャズ期

八木橋:バンドをはじめたのは高校から。ハード・ロックやヘビメタが好きで、ガンズ(・アンド・ローゼス)のコピー・バンドを組んでた。ギターと、ちょっとだけドラムもやってたよ。学祭で演奏したり、たまにライブ・ハウスにも出たね。

ーいまの音楽性とは遠いですね。

八木橋:遠いね(笑)。ハード・ロック以外をいろいろ聴くようになったきっかけは、リヴィング・カラーだね。

八木橋:ギターのヴァーノン・リードは、もともとオーネット・コールマン(※フリー・ジャズのサックス奏者)とかと演奏してた人で、クロマチック・スケールや、ちょっとアウト(※曲の調性から意図的に外れること)したようなフレーズを弾くんだよ。そこから、彼がゲストで参加してたアンビシャス・ラヴァーズを聴いて、ジャズに興味持ったんだ。

ーおお、アート・リンゼイ!でもぜんぜんジャズじゃないじゃないですけど。

八木橋:アンビシャス・ラバーズは違うんだけど、そこから繋がってニューヨークのロフト・ジャズのミュージシャンを聴くようになったんだよ。

ーなるほど。そこら辺の人たちって、単発のセッション的なプロジェクトも多いし、どんどん広がっていきますよね。ジョン・ゾーンや、キップ・ハンラハン周辺とか。

八木橋:そうだね。ジョン・ゾーンは『ネイキッド・シティ』をよく聴いてたよ。

ーまだ高校生ですよね?ハード・ロックからいきなりマニアックなところにいきましたね。

八木橋:そうだね。あと日本のバンドで、板倉文のやってたKilling Timeが好きだった。いろんな音楽の要素が入ってて、ジャズを聴くようになったのは、このバンドの影響も大きいと思う。

八木橋:少しでも面白いものが引っかかったら調べて聴いてたんだよね。まだネットがないから、情報源は雑誌とラジオ。とにかく、ずっとラジオを録音してた。好きな番組だけじゃなくって、もう何でも録ってたよ。知らない音楽をどんどん聴きたかったんだよね。レコード屋にあるものをぜんぶ聴きたい、って思ってたから。最初はよくわかんなくても、テープに録って繰り返し聴くうちに好きになる、っていうこともよくあったな。

ビ・バップ期

八木橋:高校を出るころにはビ・バップが好きになってて、自分でもやってみるんだけど全然弾けないんだよね。これは習わないとわかんないだろうな、って思って、飯田ジャズスクールっていうビ・バップを教える学校に3年間行ったの。

ーやっぱりチャーリー・パーカーのフレーズとか勉強するんですか?

八木橋:いや、曲のテーマ(=メロディ)を覚えて、ただ先生とセッションするだけっていう授業だった。だから自分でコピーをやらないとはじまらないんだよ。いろんな大学のジャズ研にも顔出してセッションしてたね。

ーへー、王道ですね!どんなギタリストが好きだったんですか?

八木橋:グラント・グリーン。ウェス(・モンゴメリー)やジム・ホールもコピーした。ジム・ホールは音少ないからコピーしやすいしね(笑)。その当時は、ビ・バップしか聴かなかったな。

ーまた偏ってますね(笑)。音楽学校に行くような若者って、最先端のジャズを聴いたりすると思うんですけど。

八木橋:そうかもね。でも、最先端のものには興味なかったんだよね。ギターが好きで、王道のジャズ・ギタリストになりたかった。グラント・グリーンがすごい好きだったんだ。音色がよくって。グラント・グリーンって、いまではかっこいい部類に入るけど、その頃はぜんぜん評価されてなくって。なにあの下手なギター、みたいな、いちばんダサいジャズの代表だったんだよ。だから、いちばんダサいことをやってたわけだね。

ーどっかズレてるんでしょうね(笑)。

八木橋:そうかもね(笑)。 

八木橋:あと高柳昌行とかフリー・ジャズ系のギターも好きだった。そのうち、ポール・ブレイ(※1960年代のフリー・ジャズ・シーンを牽引したピアニスト)みたいな抽象的なことをギターでやりたくなったんだけど、それには、音に対して瞬時に即興で反応できないといけないじゃない?自分には無理だと思って挫折したんだよね。

ー八木橋さんて、真面目ですよね。

八木橋:真面目に突き詰めようとして、活動しないうちから挫折しちゃうんだよね(笑)。
で、フリージャズに挫折したころに、マーク・リボーを知ったんだ。

八木橋:マーク・リボーって、ちょっと下手な感じがするじゃない?本当はいろんなことできる人なんだけど、わざとチューニング悪くしたりして。それで、こういうのなら俺にもできるかも、って思って。

ーいい話ですね!

自宅録音期

八木橋:学校出てからは、ジャズのグループを作りたかったんだけど、普通にジャズやるのはなんか嫌で。でも、自分も何やりたいか定まってないし、変わったことやりたい人もまわりにいない。それでMTRとサンプラーを買って宅録に走るんだよ。

ーなんでそこで宅録なんですか?その流れ、おかしいじゃないですか!(笑)

八木橋:自分の世界を作りたいっていうのがあったんだよね。テクノとかのいわゆる打ち込みものも聴いてたし。

ー僕はテクノは詳しくないんですよね。細野晴臣のアンビエント期の作品とかは聴いてました?

八木橋:うん。トロピカル3部作もだし、その頃はエキゾチカものも聴いてたね。『モンド・ミュージック』って本があったでしょ?あれに載ってるのを探して聴いて、けっこうハマってた。
そのうちに宅録をやってる知り合いができて、ライブのサポートをはじめたんだ。円盤(※高円寺にあるレコード店。自主制作のCD、カセットや、本や雑貨等も扱う。)のレーベルから最近CD(※stt蜂蜜酩酊楽団『花に潜る』)を出した佐藤(隆)さんと2人でスチール・ギター2台のユニットを組んで、ちょっと変わった音楽をやったりしてた。まあライブっていっても、たまーにだけどね。

ー作った音源は、どこかで発表してたんですか?

八木橋:いや、発表してなかったんだよね。自分で納得できなくって、ぜんぶ消しちゃった。
20代はずっと宅録やってたから、10年くらい家で引きこもってた感じだよね。

ー長いじゃないですか!発表もしないって。子供の頃に家でエア・ドラムやってたのに通じますね。

八木橋:そうだね(笑)。ジャズの知識を消したかった、っていうのもあって。知識があると、その枠を外せないから。

ーそれは演奏面での話ですか?

八木橋:いや、ギターだけじゃなくて、音楽全体のことだね。それを捨てるのに10年かかったかな。
それで20代の終わりに、音楽をやめて植木屋に就職したんだよ。他にやりたい仕事もないし、八王子の田舎で育ったから植物が身近に思えたんだよね。小さい頃から、よく近所の山をひとりで歩きまわって、街を見下ろしたりしてたんだ。

ーそれもまた変わった子供ですねー。どうして音楽をやめたんですか?

八木橋:才能ないな、って思って。

ーまたすぐ考えちゃうんだから(笑)。

ブルース期

八木橋:植木屋は2年くらいやってたんだけど、仕事中にラジオをかけてるのね。たまに日本のジャズが流れてくると、すごいつまんない。こんなのしかないのか!って、自分でやりたくなってきちゃって(笑)、30のときに会社を辞めたんだ。
それでまたギターを弾き始めたんだけど、今度は、自分の中にはルーツがないな、って思ったの。ルーツがないからうまく形になんないのかな、って。ジャズだってブルースがルーツだなわけだし、掘り下げようって思ってとにかくブルースを聴いてたね。もういろんなの。

ー好きなブルース・ギタリストとか、いたんですか?

八木橋:みんなすごくいいからねー。

ーそんな!(笑) でも、たとえばカントリー・ブルースとシカゴ・ブルースだとだいぶ違うじゃないですか。

八木橋:違うけど、通じるものもあるじゃない?ブルースって、ダンス・ミュージックの原型みたいなものだから。昔はそれこそ、一人でパーティのダンスの伴奏やってたりしてさ。リズムの勉強になるし、フィーリングが大事だな、と思って。

ーじゃあ、また家でひとりで聴いて(笑)。ブルース・バンドはやらなかったんですか?

八木橋:それはやりたくなかったんだよね。日本のブルース・バンドってなんかダサく思えちゃって。影響されたものをそのまんまやってるバンドばっかりで。

ーそれ、すごいわかります。演奏の良し悪しは別として、みんな既存の形式をコピーしてるだけなんですよね。だったら、家で過去の素晴らしい音源を聴いた方がいい。「◯◯みたいだね」って言われて喜んだりとか、逆に肝心な部分が抜けてるんじゃないかって思います。
あと、黒人を「ホンモノ」っていう人、いるじゃないですか。「ホンモノ」とか言うなよ、って思います。それこそ差別だし侮辱じゃないの、って。

八木橋:本当にそう思うね。

スイング期

ー音楽活動は、宅録期も含めてかなりブランクがありますよね。どうやって再開したんですか?

八木橋:まずいろんなセッションに行った。でもジャズのセッションはなんか違って、渋谷のROOMで深夜にやってたクラブ系のセッションに行くようになったんだ。そこでやってたのは、ロイ・ハーグローヴみたいなのとかかな。クラブ・ジャズ、踊るジャズ。SOIL&PIMP SESSIONS のメンバーも来てたよ。

八木橋:で、そこで出会った仲間と、Jazz Collectiveっていうクラブ・ジャズみたいなバンドを始めたのね。そしたら、バンドのリーダーの廣瀬(貴雄)くんがボガルサのサポートをやってて、俺も誘われて一緒にやるようになったんだよ。

八木橋:そこではじめてジャイヴとか古いジャズをやってる人たちに出会って、ルーツ系の音楽をやるようになった。それまでは、チャーリー・クリスチャンぐらいしか聴いてなかったんだよね。

ーギターの演奏スタイルも、モダン・ジャズとは違いますよね。単音ソロよりも、カッティング主体だし。

八木橋:そうだね。でも逆に、いろんなソロはできなくても、躍らせるリズムを作ることはできるかな、って思ったんだよね。

ーボガルサ、僕は見てないんですけど、一部では伝説のバンドですよね。高円寺あたりに行くと、いまでもいろんな店にポスターが貼ってある。ボーカルのテッシンさん、自殺だったんですよね?

八木橋:そう。やっぱりそれはショックだった。まわりで死んだ人っていなかったし、こんな簡単にいなくなっちゃうんだ、って。普段はすごく明るくてよく話す人で、そんなに悩んでるとは知らなかったから。
その直前に出したアルバムは、(楽器ごとに)別録りで作ったから変にまとまったものになって、いまとなっては後悔してるんだよね。結果として、最後のアルバムになったわけだし、もっとできたんじゃないか、って気持ちが重荷になっちゃって。

ーそうなんですか。それは心残りですよね。

八木橋:うん。それもあって、スイング(・ジャズ)をもっと追求したい、って思ったんだ。こっちのスタイルの方が自分に合ってるしね。
だから、当時はジャンルを限定して活動してたけど、けっこう忙しかった。ボガルサは、テッシンくんの後も別のボーカル入れて続いてたし、ボガルサでピアノを弾いてた(荒井)伝太くんとのトリオもやってた。ちょうどその頃、伝太くんがいたジェントル(Gentle Forest Jazz Band)のギターが辞めて、代わりに俺が入って。


八木橋: あとバロンくんともその頃やりはじめてたと思う。バロンくんのバンドは、スイングだけじゃなくて、スカやカリプソやいろんなリズムの曲があるから面白かったね。

ジャマイカ音楽~テクノまで

ーあらためて話を聞くと、八木橋さんって1つのバンドを長くやってますよね。バンドやりたい、って気持ちがあるんですか?

八木橋:うーん、バンドっていうよりは、面白い音楽をやりたいって感じかな。自分のギターを聴かせたい、とか、すごいソロを弾きたい、とかいうのはあんまりないんだよね。

ーああ、それわかります。はじめて八木橋さんと一緒に演奏したのって、たぶん2~3年前、恵比寿のイタリアンのオープニング・パーティでのデュオ演奏に誘ったときで。演奏の合間にエイモス・ギャレットの話をしたら乗ってきてくれたんですよ。エイモスって、音楽好きに受けるタイプのギタリストだから、俺ってやっぱ見る目あるな!って思いましたね(笑)。

八木橋:そうだったね。その前に最初に会ったのは、バロンくんのレコ発ライブだっけ?

ーかもしれないですね。最初に見た八木橋さんのライブは、バロンくんかモッチェ(永井)だと思います。

ーぜったい面白い人だなってピンときましたね。八木橋さんって、リズムを刻むときのタイム感が、モダン・ジャズの人と違うんですよね。ソロも、ジャズのセオリー通りにスケールをベースにして組み立てるのじゃない。きっといろんな音楽聴いてるんだろうな、って思いました。
モッチェとは、どういう繋がりだったんですか?

八木橋:モッチェは、今野英明さんのバンドで、ベース弾いてたんだよ。コーラスの声がやたらでっかいベーシスト。リード・ボーカルよりでかい(笑)。

ーベーシストとして出会ってたんですか!ズビ・ズビ・ズーもモッチェ・バンドから派生したんですよね?スイング・ジャズをやりながら、スカやロック・ステディも聴いてたんですか?

八木橋:ボガルサのあとくらいから、ちょっとづつ聴きはじめたかな。

ーハード・ロックからジャズ、ジャイヴ、ブルース、ジャマイカ、とルーツをだんだん広げていってる感じですよね。

八木橋:そうだね。あといまでもテクノとかも聴くし、特にApple Musicを使うようになってから、より節操なくなった。

ーへー。テクノのギターは、空間系のプレイとかになるんですかね?

八木橋:うん。でもそういうギターはあんまり好きじゃない。エフェクターないとできないじゃん?素の音の方が好きかな。デレク・ベイリーとか好きだし。あの人はホントに素の音だけだから。

ーまたマニアックな人を出してきますね(笑)。もちろん、王道のロックも聴いてるんですよね?それこそローリング・ストーンズとか。

八木橋:いちおうは聴いてるけどね。でもストーンズよりはビーチ・ボーイズの方が好きかな。

ーなるほど。やっぱ変なのが好きなんですね(笑)。

of Tropique

ー最初はだいぶ軽く誘いましたけど、オブトロをやるにあたって、なんかイメージとかありました? 

八木橋:(哲平くんが)同じような音楽を聴いてる人だな、っていうのは話しててわかったからね。自分もいろんな引き出しを出せそうだから、やってみたい、って思ったんだよね。
たぶん、俺が阿佐ヶ谷の店でモンド/エキゾチカ系のライブをやったのを知って、連絡くれたんだと思うんだけど。

ーライブは見れなかったけど、服部(将典)さんと熊谷(太輔)さんとのトリオですよね。たしかにそのライブも気になったけど、それだけじゃなくって。八木橋さんて、いろんな音楽を聴いてるじゃないですか。そういうミュージシャンって、意外と少ないんですよね。自分の楽器の入ってる音楽しか聴かない、っていう人が多い。

八木橋:プレイヤーは、これしか聴かない、ってなりがちだよね。俺はプレイーヤーを一度あきらめてる、っていうのもあるしね。

ーリスニングってすごく大事だと思ってるんですよ。それによって演奏も違ってくる。フレーズや音の選び方とは別の、譜面には起こせない、匂いみたいな部分で。

八木橋:それはあるだろうね。

ーオブ・トロピークは、いちおうラテンとかトロピカルっていうのが念頭にあるけど、ラテンの人とはやりたくなかったんですよ。ただのラテンになっちゃうから。純粋にプレイがいいミュージシャンはいくらでもいるけど、音楽の話ができたり、いろんな音のイメージを共有できる人はなかなかいない。さっきのブルース・バンドの話で出たような、なになに風、みたいに演奏する人とやってたら、オブトロは形になってなかったと思います。

八木橋:そっくりさんが喜ばれるっていうの、苦手なんだよね。ジャズでもそうで、誰々風、っていう看板がないと評価されない。
10代の頃、ある人に個人レッスンを受けたことがあって。「君は誰が好きなの?」って聞かれて「グラント・グリーンです」って答えたら、「日本にはあんまりいないから、君はグラント・グリーンのそっくりさんになりなさい」って言われたのね。で、真に受けてやってみたんだけど、だんだんなんか違うなーって思って、そのあと連絡しなかった。俺にはそういうの向いてなかったんだよね。

ーそんなこと言う人いるんですね!マネだったら元の人を聴いた方がいいじゃないですか。ライブだって、ただフレーズをなぞるだけなら、遊園地のそっくりさんショウと変わらないですよ。
オブトロは八木橋さんのおかげで、なになに風、っていうサウンドとは程遠くなりましたね。良くも悪くも(笑)。

そして神戸

ーしかし、よく神戸に移住することにしましたよね。東京でギタリストとして評価を得ていたわけじゃないですか。そこから方向転換するって、すごい決断ですよ。

八木橋:うーん、まあね。でもサイドマンっていうのは使われてるだけだからね。けっきょくは日雇いなわけだし。

ー最近思うんですけど、だいたいのミュージシャンって、「有名な人」のバックで演奏するのをゴールにしてるじゃないですか。金銭面のことは置いておいても、みんな疑問もなくそれを目指してることに、すごく違和感があるんですよ。

八木橋:そうだね。だから神戸では、自分で発信することをやっていきたいと思ってるんだ。たまたま面白い物件(※元銭湯の建物)が見つかって、そこで録音したりもできるしね。こないだ行ったとき、銭湯のスペースで軽くギターを録ってみたんだけど、リバーブ効いてていい感じなんだよ。

ーへー、いいじゃないですか!
でも正直、まいりますよ。オブトロやるとき、八木橋さんが東京に来れないときもあると思うんです。そうすると、代わりを頼めるギタリストがなかなかいないんですよねー。

八木橋:家で悶々としてる人とかがいいんだろうけど、そういう人はなかなか表に出てこないからね。俺も30歳まで出てこなかったんだから(笑)。

ーうーん、たしかに(笑)。神戸で変な人いたら教えてください。って、そっちには八木橋さんいるからいいか(笑)。じゃあ最後に、ファンへのメッセージはありますか?

八木橋:メッセージねー。神戸での活動を楽しみにしててください(笑)。

ーみんな楽しみにしてると思いますよ!


八木橋恒治 

1973.2.16東京八王子市出身 中学校2年の時に洋楽を聴きギターを始める。 
80sPopからスラッシュメタルまで様々な音楽に触れていたが高校3年になるとJazzに目覚めジャズギターリストを目指す。 
その後自宅録音で音楽制作を始め舞踏家との共演や即興演奏を行っていた。 
一時音楽活動を辞めるが30代に突入後に一念発起して再び音楽活動を始める
ジャイブバンドのボガルサに出会い古い黒人音楽に目覚めルーツ系ギターリストとして活動。 
バロンと世界一周楽団、Gentle Forest Jazz Band、今野英明&Walking Rhythm、坂本愛江&Hot Spice、モッチェ永井バンド、of Tropiqueのメンバーとして様々なステージに立つ。 
2019年10月から東京から神戸へ移住し活動を新たに始める。

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田中馨(Hei Tanaka)インタビュー
− なにもないのが理想 −

田中馨(けい)の満を辞してのリーダー・バンドHei Tanakaの音は、喜びと確信に満ちている。同じインスト・バンドとして、刺激を受けずにはいられない。決してメインストリームではない独特の音楽性にも共感する。一緒にやってみたい。話を聞いてみたい。
インタビューは、多摩川上水にあるロバハウスという一風変わった建物で行われた。ここは、古楽器や創作楽器を使って全国の子供達に向けた演奏活動を行っている『ロバの音楽座』の拠点だ。建物内にはコンサートが開けるスペースもあり、谷川俊太郎や山下洋輔なども出演する。田中のバンド仲間であり妻である松本野々歩(ののほ)は、『ロバの音楽座』のリーダー松本雅隆(がりゅう)の娘であり、現在ふたりはロバハウスのすぐそばで暮らしている。ロバハウスに並べられた世界中のめずらしい楽器たちに囲まれて、自家製ハーブのお茶を飲みながら、ゆったりと話を聞いた。  

[取材・写真 / 近藤哲平]
 

『ぼ~ん』

ー『ぼ~ん』、だいぶアヴァンギャルドですねー!でも、王道のサウンドではないけれど、楽しく聴ける。「難解」って形容詞は似合わないし、複雑さが先に立つ印象もありません。

田中:やりたかったのは、めちゃめちゃ複雑だったり、変なことやってんなーってことじゃなくて。たとえばラジオで流れて、たまたま聞いた人が「なんかおもろいやん!」ってなったらいいなーって思って作りました。 

ーそういうの、いいですね!日本て、メイン・ストリーム以外の音楽に触れる機会がとても少ないと思うんですよ。好き嫌いの前に、出会いがない。Hei Tanakaみたいなバンドが受け入れられていけば、町に流れる音楽も多様化して出会いも増えるかも、って期待します。

田中:やっと1枚出せただけなので、これが世の中に広まれば、ですけどね(笑)。

田中:Jpopだったり、今の日本のメイン・ストリームでやってる人たちにも負けたくないなーってすごく思います。それもあきらめちゃダメだなって。

ー実は変わった音楽性であればあるほど、そういう意識は大事なのかもしれませんよね。音楽性を追求するあまり、リスナーと距離ができてしまうバンドもいるし、そうすると孤立していって、活動が難しくなる。Hei Tanakaは、絶妙なバランスのバンドだと思います。

『ぼ~ん』はカクバリズムからの発売ですが、アルバムを作る際に、レーベル側から提案もありました?

田中:何もなかったかな(笑)。任せてもらいましたね。

ーすばらしいですね!音楽業界、まだまだ望みありますね(笑)。

パンクからモンドからザッパまで

ー音楽は複雑なのに、やけに勢いがあるじゃないですか。歌なんかまるでパンクみたいで、すごく面白いです。

田中:中、高とパンク・バンドやってたんで、そういうものへの憧れはあると思いますね。そのころはベースと、歌も歌ってました。ボーカルのときは、声がでかすぎて、音がぜんぶ割れる、っていう感じでしたけどね(笑)。

ーちなみに、どんなバンド聴いてたんですか?

田中:パンクのバンドだと、コークヘッド・ヒップスターズ。

有名なところだと、バックドロップ・ボムやブラフマンとかも聴いてました。中学生の頃は、ピーズ派かカステラ派があって、けっこうみんなピーズが好きだったんですけど、なぜか僕はカステラが好きで。ボ・ガンボスとかソウル・フラワー・ユニオンも好きでしたね。

ーひねくれたバンドばっかりじゃないですか!(笑) 

田中:高校生になるとアナログ(=レコード)を買いはじめて、古い音楽も聴くようになりましたね。あと高校3年生くらいかな、『モンド・ミュージック』の影響で世界のいろんな音楽を聴くようになりました。まだ情報がない時代だし、あの本は読み漁りましたね。作ってる人たちの「これおもろい!」っていう熱量がすごい。

ーたしかに。いまだに、モンド/エキゾチカを扱った本であれを超えるものはないですよね。

あと個人的には、以前のツアー・タイトルに(フランク・)ザッパの名前を使っていたのが気になりました。

田中:実は、ザッパの音楽自体がすごく好きなわけじゃないんです。あれだけの音楽をやってるのに、ステージではただのエロいおっさんに見えるところが、キュートで好きなんですよ。でも、お客さんに「ザッパ感じました!」って言われたら、それは素直にうれしいですけどね。

狙ってやれない音楽を、なんとなくやってみた

ー僕は、ザッパの盟友の(キャプテン・)ビーフハートを連想しました。特に、ギターのフレーズやサックスに、近いセンスを感じましたね。

田中:それはうれしいですね!ビーフハートはめちゃめちゃ好きだけど、あれこそ狙ってやれるもんじゃないですからね。

ーHei Tanakaも、狙ってやれないですよ。楽器編成からして、普通のバンドじゃないですし。 どうしてサックス3本なんですか?

田中:もともと、サックスっていう楽器があんまり好きじゃなかったんですよ。ジャズにはいいのかもしれないけど。

ーたしかにサックスって、ジャズやソロ楽器っていうイメージが強いです。歌モノでも、おしゃれな合いの手を入れる、っていう役割が多いし、ホーン・セクションだとトランペットの方が目立つし。

田中:逆に、あえて好きじゃない楽器に囲まれてみたら面白いかも、って思ったんです。サックスが10人くらいいたらどんなになっちゃうんだろうとか妄想したりしていました。

ーサックス3本も、セクションとしてではなくて、それぞれ独立したパートとして動いてますよね。それぞれのパートも、馨さんが考えてるんですか?

田中:そうですね。最初は僕が全部打ち込みして譜面書いて渡してます。高尾のワクワクビレッジっていう市民施設を12時間くらい借りて、自分のパートをそれぞれ4時間くらい個人練してからみんなで合わせる、っていう合宿みたいなことを最初の頃はやってました。

ーあれ、譜面あるんですね。

田中:譜面、ありますよ(笑)。

ー曲によって構成もさまざまですよね。展開が多い曲の場合、どうやって作っていくんですか?

田中:インスト曲を作る時は、まずストーリーを考えます。たとえば、南米のどっかの遺跡のまわりの、まだ文明と出会ってない民族のお祭りで起こったことだな、とか。もちろん全部フィクションだし、音楽的に向こうのリズムはこうだから、ってやってるわけじゃないんですけど。

ーいわゆるワールド・ミュージックも参考にします?

田中:ワールド・ミュージックも好きですよ。新年にトルコに行ってきたんですけど、そこでもレコードやテープを買ってきました。出会うのが好き、みたいなところがあって。僕の知らないところで暮らしてる人たちの日常の音楽を、知識なく買って聴くのが面白いんです。音楽的にびっくりすることがたくさんある。

ーあと、以前と比べて、歌モノが増えましたね。

田中:歌モノを作ろう、って思ったわけじゃなくて、アルバムを作ってるうちに自然に増えていった感じです。たとえば楽器のソロについても、最初から決めずに、楽曲やステージが豊かになりそうだと思ったらソロを入れる。そういう作り方だから、時間がかかるんです。2年ぐらい作ってましたからね。

ー2年て、けっこう長いじゃないですか。バンドが解散することだってあります。メンバーも変わってないんですよね?

田中:変わってないですね。

ーライブはけっこうやってたんですか?

田中:1年目は各地でライブをやってましたね。そもそも、最初はライブをすることしか考えてなくって。CDを作るのって、またちがう運動神経が必要だし、そのことを考えてるヒマがなかったんですね。音源にすることを考えながらやってたらうまくいかないだろうな、って思って。6人で舞台に立ったときに、Hei Tanakaとしての答えにたどり着くための曲をつくって、そのためにみんなとの時間を使う、っていう。

ーバンドをやりたい、っていう欲望はあったんですか?

田中:いや、なかったですね。Hei Tanakaは、ショピンで日本大学の学園祭に出たときに、企画してた仲原くんていう人から、馨さんソロやった方がいいですよ、って言われたのを真に受けてはじめたんです。なんとなく、やってみたら面白いかなと思って。

ロバハウス

ーHei Tanakaの、ひとことでくくれないような音楽性って、ロバハウスの環境も影響してるのかな、って思います。これだけの楽器が身近にあるってすごい。世界の音楽のミニ・ライブラリーのようなものだし、日常的にいろんなめずらしい音楽に触れながら生活するわけじゃないですか。

田中:そうですね。雅隆(がりゅう)さんと、レコード聴きあったりもしますしね。

ー雅隆さんは、音楽の歴史を研究したり楽器を作ったりもしてるんですよね?

田中:そうですね。でも雅隆さんて、研究家目線じゃなくて、すごく無邪気なんです。もちろん、とっても深い知識を持っているけど、そんなことより「面白い音出るんだよね~!」みたいな、少年が面白いもの見つけたときみたいな体温で話せるのが楽しいですね。

ーへー!いいですね。長年子供たちを相手に演奏してるっていうこともあるんでしょうかね。堅苦しいと子供はひいちゃいますし。馨さんも子供向けの演奏やってますけど、それって野々歩(ののほ)さんの存在も大きいんじゃないでしょうか。もし野々歩さんと一緒にいなかったら、子供向けの音楽もやってなかったかもしれませんよね。

田中:やってなかったと思います。野々歩のお父さんの活動を知るまでは、音楽ってバンドやるしかないと思ってました。子供たちに向けての音楽ですが、何かに迎合することなく、本当に喜びとしてやってる。しかも子供たちを取り巻く世界にちゃんと響かせるって、けっきょく同じことをやってるんじゃんって。そんな音楽のやり方があるんだって知りませんでした。

ー僕も、小学校とかに、それこそロバの音楽座みたいな団体が演奏に来た記憶はなんとなくあります。でも、そういう人たちの存在は、ぼんやりと想像してただけだし、選択肢もなかったし、そういうミュージシャンと出会うこともありませんでした。馨さんの経験は貴重ですよね。

田中:僕が知らなかったように、たとえばバンドやってたりすると、バンドってこうやるもんだろう、って決めてる人も多いんじゃないかと思います。音楽やる、有名になる、食ってく、ってこういうことだろう、って。だから、いろんな選択肢があるってことを、まわりにも共有していけたらいいなと思います。

ーいまでも、ライブ・ハウスにノルマ払うのが当たり前と思ってる人たちもいますからね。

田中:食ってくっていうことだけじゃなくて、やり甲斐っていう意味でも、いろんな角度があるなって思うんですよね。以前、お芝居の音楽で、舞台で僕一人で演奏することがあったんです。そのときは、演出家さんに何か投げかけてもらって僕が答えるっていう作業の繰り返しで、すごいいっぱいやり取りをして。答えを探している様な冒険感と、一緒に作る喜びがありましたね。それまで、音楽やっててこんなに何かを投げかけられたことってなかったんです。そういう作り方があることを、知らなかった。めちゃめちゃ大変でしたけど、その先の喜びも知れました。 

田中馨という「現象」

ー舞台の音楽をやったり、チリンとドロンでは子供に向けて演奏したり、いろんな場所でいろんな人たちを相手に音楽をやってますよね。

田中:それでも、ちがうことをやってる気持ちはなくって、Hei Tanakaも同じライン上にある感覚なんです。ライブや劇場に足を運んでくれた人たちに対して、簡単なことを言えば、来てよかったな、って思ってもらいたい。チリンとドロンは特にそうだし、舞台の音楽もそうですね。その経験は、Hei Tanakaにも生きてます。俺がベース弾かなくてもいいし、そこにいなくてもいい。田中馨を見てもらわなくてもいいんです。そう思ってると、いろんなことが捨てられる。こうやりたい、こうなりたい、こう見れらたい、っていうものが薄れてくるんです。経験値が邪魔になることもありますからね。

ーこうやったら盛り上がるだろう、みたいなことですか?

田中:そう。それを毎回捨てれる覚悟ができたというか。毎回まっさらで、気持ちだけがずっとあるというか。同じ客は二度といなくて、同じ会場は二度とないので、日々更新していかなきゃいけないですから。

田中:いまのメンバーでやり始めてすぐくらいに、SNSで「Hei Tanaka 見たけど音楽的に何もなかった」みたいな事を書いてる人がいて、それが妙にうれしかったんですよ。「何もない」っていうことをやった、っていう喜びがすごくあって。微妙なバランスで成功したと思ったんです。

ー小泉文夫の本の中で大好きなエピソードがあるんです。エスキモーがクジラか何かを獲るんですが、一人では無理なので、何人かで捕りに行くんですね。そして、獲れたら喜びの歌を歌うんだけど、3人いたらそれぞれが全く別の歌なんです。僕らの感覚からすると音程もリズムも違ってぜんぜん合ってない。でも彼らは、みんなで一緒に歌ってる、ってことが喜びなんです。批評や評価ってものがなくて、「一緒に歌う」っていう行為自体を受け入れる素直さがすばらしいな、と。Hei Tanakaの音楽にも、そういうシンプルな喜び、っていうものを感じます。

田中:行為、っていうのは、ただの現象であって、何もないのと一緒ですよね。それは理想なのかもしれないな。

ーHei Tanakaは、馨さんの感じることが投影された「現象」なのかな、って思います。

田中:そう言われると、よく2年も「現象」目指して続けてきたなーって思いますね。

ーその「現象」の一部でいることが、きっと気持ちいいんでしょうね。でも、もしバンドに入ってくれ、って誘われたら、ものすごい躊躇すると思いますけど。

田中:それ、いろんな人に言われます(笑)。

 

田中馨(たなか けい)

得意なのはコントラバスとエレキベースと曲作り。2011年まで、SAKEROCKのベーシストとして活躍。
2019年自身がリーダーのHei Tanakaの1stアルバム「ぼ~ん」がカクバリズムからついにリリース!ベース、ドラム、ギターにサックス3 人から歌ものあり、インストありの、エネルギーの塊のような楽曲とそれぞれの態度で、音楽に振り回され続けた先にある様は泣けて笑える、最後は大きなクエスチョンのお土産付き
そんなライブは必見!各地で話題沸騰中。
そのほか、赤ちゃんと楽しむ 世界の遊び歌 わらべ歌を演奏する「チリンとドロン」子ども遊びを通して新しいパフォーマンスを考える「ロバート・バーロー」幅広い層に人気のアコースティック デタラメ うたものユニット「ショピン」を軸に「トクマルシューゴ」や「川村亘平斎」「オオルタイチ」など類稀なる最高なミュージシャン達との活動で数多くのフェスや海外ツアー、音楽の場にとどまらず色々なプロジェクトに積極的に参加させていただいている昨今。
舞台の音楽を担当を担当することも多く、ペンギンプルペイルパイルズ主催の倉持裕の作品や劇団はえぎわ主催のノゾエ征爾の作品に多く関わる。
代表的な作品は

  • 2010年 二人芝居「Griffon」森山未來×菊池凛子+Levi’s
  • 2011年「ヴィラウランデ青山~返り討ちの日曜日」企画:竹中直人×生瀬勝久
  • 2013年 北九州芸術劇場リーディングセッション vol.22「続・世界の日本人ジョーク集」
  • 2015年 東京芸術劇場 「気づかいルーシー」 原作:松尾スズキ/脚本・演出:ノゾエ征爾
  • 2016年 Parco劇場「ボクの穴、彼の穴」 原作:デビット・カリ/訳:松尾スズキ/脚本・演出:ノゾエ征爾
  • 2017年 北九州撃術劇場「どこをどうぶつる」構成・振付・出演:森下真樹,大植真太郎,田中馨
  • 2018年 Parcoステージ「命売ります」原作:三島由紀夫/脚本・演出:ノゾエ征爾

そんな0才から神様までを相手に創作活動する経験を生かして、ライブハウスや各地のフェス、舞台作品、現代美術、こども達。数多くの面白そうな現場に節操なく現れて、かすかな波紋を呼んでは消えていく。ちょっと不思議な田中印の活動は今の日本の中でとても貴重で稀有だと評価する人もいるとかいないとか。

http://www.tanaka-kei.com/
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雨宮圭佑(discos PAPKIN)インタビュー
ービルなんて建てなくていいー

世界中のミクスチャー音楽を取り扱うWEBストア、discos PAPKIN。ワールド/トロピカル・ミュージックの比重も大きく、of Tropique としては気になる存在だ。特筆すべきはその品揃えで、カタログの独自性は数ある音楽ストアの中でも際立っている。情報がほとんど出回っていない海外のインディーズ作品まで網羅し、そのほとんどが視聴できる点も素晴らしい。しかしサイト上には何の説明もなく、どういう方針でどうやって運営されているのか、謎である。直接聞くしかない。冬の渋谷、音楽好きに愛される居酒屋サロン・MeWeで、代表の雨宮圭佑に話を聞いた。

[取材・写真 / 近藤哲平]

 

きっかけはマヌ・チャオ

雨宮:もともとクラブ・カルチャーが好きだったんです。ジャングルやドラムンベースを聴いていて、そこからレゲエにハマりました。
南米の音楽に惹かれたきっかけは、マヌ・チャオですね。あるDJイベントの終わった明け方、CARIBBEAN DANDY(雨宮の所属するDJチーム)の藤井悟さんの家で、1stアルバムを聴かせてもらったんです。まだ21才ぐらいだったから、約20年前ですね。

ーパリ発ワールド・ミュージックのブームで、マノ・ネグラ(マヌ・チャオの在籍していたバンド)は日本でも人気ありましたよね。

雨宮:そうですね。でもマヌ・チャオの1stはすごいシンプルで、マノ・ネグラのパンチが効いた感じとはまた違う。レゲエっぽいけどレゲエじゃないし、なんなんだろう、って思いましたね。
それからマヌ・チャオみたいな音楽を探すうちに、メキシコのモンテレーのアコーディオン・プレイヤー、Celso Pinaに出会ったんです。映画『バベル』のサントラにも使われた「CumbiaSobre El Rio」を聴いて、これだ!って思いました。イギリス人DJRuss Jonesがコンパイルした『Future World Funk』っていうオムニバスの2曲めに入ってたんです。

雨宮:2001年のリリースで、ラテンやブラジルやいろんな音楽が入ってて、本当に面白い。エル・スール・レコードで試聴して、僕が欲しいのはこの2曲めなんだ!って思いました。でも、まだパソコンもなかったし、いろんな人に聞いても情報がなくって。これが「クンビア」っていう音楽だとわかったのは、数年後ですね。

HMV渋谷店

雨宮:自分の店を始める前は、2010年まで渋谷のHMVでワールド・ミュージックのバイヤーをやってたんです。
最初はダンス・ミュージックのコーナーに配属されて、そのあとなぜかジャズに移動になって。ジャズなんてぜんぜん知らなかったから、お客さんに質問されても分かんない。いちいち先輩に聞いて覚えていくしかなくって、大変でしたね。

雨宮:もともと夜勤スタッフとして入ったんですよ。そのころHMVは夜12時まで営業していたんです。僕が入る前、1ヶ月間だけですが朝5時までやってたこともあるんですよ。

ー朝5時まで!?

雨宮:Jpopや売れ線の置いてある1階のフロアだけ開放してたらしいんですよ。でも、始発待ちの酔っ払いだけになっちゃって()

ーそうなりますよね()

雨宮:それから1~2か月して、ワールド・ミュージックの売り場に欠員が出て、そっちに移ることになったんです。まだそんなに詳しくなかったんですけど、レゲエがわかればなんとかなるだろう、ってことで。運命を感じましたね。

CDの売り上げがだんだん下がっていく頃ですよね?

雨宮:そうですね。朝5時まで営業したり、お店としてはいろいろトライしてたんですけど、ソフトが売れなくなっていった時代だから売り上げもどんどん落ちていって。

ー音楽が売れなくなる過程を体験してるのにレコード屋をはじめるって、すごい決断だったんじゃないですか?

雨宮:ノリと勢いですね。結婚もしてなかったしガールフレンドもいなかったし、俺ひとりなんとかなるだろうって思って。会社勤めが嫌で、いつか独立したかったんです。

discos PAPKIN

雨宮:オンライン・ショップですが、ポップアップ・ストアをやることもあります。あと、僕はDJもやるから、DJ(販売と)セットでイベントに呼ばれるんですよ。函館、新潟、上越、郡山、大阪、高松、高知、松山、甲府、いろんな場所に行商に行ってます。

ーへー!フロアで流れて気に入った音楽を、その場で買えるわけですよね。 

雨宮:そうです。これも好きなんじゃない?って勧めることもできるし。ライブ感があって、すごく楽しいですよ!

ーそれはいいですね!DJで呼ばれてるんだし、音楽性の合う人が集まるわけじゃないですか。お店の品揃え自体が独特だから、ファンも多いでしょうしね。

雨宮:喜んでもらえてる実感はありますね。

ー品揃えとしては、国内外問わずインディーズが充実してますが、最初からそういう方向性だったんですか?

雨宮:そうですね。HMVはスーパー・マーケットだから、なんでも売るんですよ。たとえば、韓流やKポップもワールド・ミュージックに分類されていて、なかには愛のない企画モノとかもあるんです。そうすると、なんでこんなの売らなきゃいけないんだ!って気持ちになる。だから今は、100%胸張っておすすめできるものだけ置きたいっていつも思ってます。それで気に入ったものをどんどん仕入れてると、ああいう並びになるんですよ。逆に今度は予算がないっていう問題もありますけどね()

discos PAPKIN のサイトは、試聴できるものが多いですよね。たとえばHMVやタワー・レコードで気になるアルバムを見つけても、20003000円すると即決はできない。せめて1曲でも聴けてそれが良ければ買うのに、って思ったことが何度もあります。

雨宮:そうなんですよね。今やってるのは、あのころできなかったことを、どれだけ細かいところまで小回り利かせれるか、ですね。

ー仕入れは、どうしてるんですか?

雨宮:ネットをメインに、とにかく探します。気になるものは、取引してる海外のディストリビューターのデータ・ベースを調べて、なければ、ミュージシャンに直接コンタクトを取ります。

ブラジルの町、ベレンの話

ー海外に行って仕入れることもありますか?

雨宮:1度だけ、3年くらい前かな、ブラジル北部のアマゾン側沿いの、ベレンっていう町に行きました。テクノブレーガっていう、ベレン発祥の音楽にどハマりしたんです。

雨宮:ビジネスのやり方も独特で、ソフトを売るんじゃなくて、とにかくライブでお金を稼ぐんですよ。ライブ会場でフリーのCDRを配って宣伝して、年間100200本ライブをやって稼ぐっていうスタイルなんです。

ーアルバムとして、発売もしてるんですか?

雨宮:大きいところからちゃんと発売してるのは、よっぽど売れてる3つか4つのバンドだけですね。でもそういうものは、ディストリビューターがいくつも間に入ったり、送料も高いので、売値が高くなる。だから、現地で仕入れた方がいいんじゃないかと思って行きました。
でもあまりテクノプレーガ はありませんでしたね。以前にベレンに行ったことがあった吉祥寺Baobabの店主ヨースケ君に、レコードも買った方が良いと言われていたので、中古屋を回っていろんなレコードを買いました。
一番の収穫は、ギタハーダっていう現地の音楽を知ったことです。ランバダのインスト版みたいな、ギターがメインの音楽なんですけど、リズムも面白いしギターもいい。カリブの音楽やペルーのチーチャ、アフリカン・ギターの影響もあるし。

ーそれは現地に行ってから知ったんですか?

雨宮:そうです。レコード屋のおやじが教えてくれたんです。日本には情報もほとんど入ってきてなくて、僕はぜんぜん知りませんでした。ギタハーダあるか?って聞いてまわって、かなり仕入れましたよ。

ーその出会いはすごい!行った甲斐がありましたね。

雨宮:着いた時は怖くてしょうがなかったですけどね。ポルトガル語もぜんぜんできなかったし、文字情報もあまり調べてなくて。空港着いてホテルに着くまで、もう映画の『ロッカーズ』(1978年のジャマイカ映画。レゲエ文化を世界に広める役割を果たした。)の世界ですよ。裸でバイク3ケツしてるような。小さな町だし、とにかく怖かった。治安がめちゃくちゃ悪いんですよね。ホテルのオーナーは日本人で、ブラジル人の奥さんとベレンに23年住んでるんですが、僕が行った2週間くらい前に、町で夜に身ぐるみはがされたそうなんです。メガネや靴まで、ぜんぶ持ってかれた、って。

ー靴まで!

雨宮: 南米は、別の宇宙だと思いましたね。文化も言葉もちがうし、すごくいい経験でした。
雨季だったんで、午後3時~4時の間にいつもスコールが降るんですよ。とんでもない量の。だから、朝から出かけて3時にはホテルに戻って、部屋でビール飲みながらレコードを聴くのが日課だったんです。日本で聴くのと現地の環境で聴くとでは、同じ音楽でもぜんぜん違って聴こえる。ああこの音楽はこの土地から生まれたんだ、っていう気持ちになりましたね。

ー土地の風土って、音楽に影響してますよね。

雨宮:そうですね。向こうの人は、ルーツに対する思い入れも強いですしね。
日曜に広場に行くと、着飾ったおばあちゃんがカリンボーの生バンドをバックに踊ってたりするんですよ。毎週広場で踊ることを楽しみにしてるおばあちゃんなんて、最高じゃないですか!

ー何年通ってるんでしょう。それが日常なんでしょうね。

雨宮:そう。日常に近いところに、カルチャーや伝統がある。不思議な町でしたね。すごく自由で居心地がよくて、ご飯も美味しいし、また来たいなって思いましたよ。アマゾン川も見れたし、とにかく最高でしたね!

50枚注文して15枚しか届かなかった話

雨宮:帰国して、それらを売ったことで、今度はブラジルのレコード・ディーラーがコンタクトしてきたんですね。値段交渉して50枚くらい送ってもらったんですが、荷物が届いてみたら、15枚くらいしか入ってなかった。

ーえー!

雨宮:送料の関係で二回に分けて送るから、って言うんですよ。1週間くらいしてまた荷物が届いたら、今度は3枚しか入ってないんですよ!しかも、前と同じレコードも混じってる。病気で入院してるから、とかわけわかんない理由を言ってくるんで、PayPal(海外で多く利用されている決済会社)にクレームを出たんです。そしたら、いま海外にいるから自分の兄弟に頼んでレコード送らせた、って謝りのメールがきて。追跡番号もあって、ちゃんと発送されてる。で、何が来たと思います?

ーレコードじゃなかった?

雨宮:手紙が届いたんですよ。

ーえ!どういうことですか?

雨宮:直筆の手紙で、ゴメン、みたいなことが書いてあるんですよ。頭にきて破り捨てましたよ!()
たぶん、詐欺的なディーラーだったんでしょうね。リストが本物だったのかもわかんないし、そのあとPayPalのアカウントも凍結されてました。こっちは、その50枚を年末の目玉商品にするはずだったので、もう大変でしたけどね。

ーうわー、それはつらいですね。

雨宮:以前にeBay(海外のオークション・サイト)でレコードを買ってたときも、ブラジルからレコードが届いたことがないんですよね。もうブラジルから買うのはやめよう、って思ってたところに、その事件があって。まあいい勉強になりましたよ。これ話すと、みんな大笑いしてくれるし()

コロンビア音楽にハマる

雨宮:それ以来、南米からレコード買うのが怖かったんですけど、コロンビアのディーラーとは取引きしています。

ーコロンビア音楽にも強いですよね。

雨宮:コロンビア音楽は、HMVのワールド・ミュージック売り場でクンビアを特集することになって、Discos Fuentes(コロンビアの老舗レーベル)を知ってからですね。そのレーベルにいたAfrosoundっていうバンドにハマったんです。センスのいいバンドで、コロンビアにいながらチーチャ(ペルーのクンビア)をやってて、90年代 になるとレゲトンやパナマのレゲエとかやりだすんですよ。マヌ・チャオも、Afrosoundのギターをサンプリングしてます。コロンビアでもペルー側のバンドなんですけど、そのうちコロンビアのアフリカ寄りの音楽にもはまって。パレンケっていう逃亡奴隷のコミュニティの音楽で、コンゴのスークースとかの影響を受けてるんです。

雨宮:これはAbelardo Carbonoっていう人のリーダー・アルバムで、82年のリリースです。

雨宮:アフロ・コロンビアのスーパー・ギタリストで、いまも現役でクアンティックと曲作ったりしてます。

雨宮:チーチャにハマってたし、ギター・クンビアだと思って買ったんです。それがアフロ・ルーツのコロンビア音楽だと分かったのは、Soundway(トロピカル音楽シーンを牽引する、イギリスのレコード・レーベル。)から2010年に出たこの編集盤のおかげです。

雨宮:このレコードのおかげで、色々な点がつながって線になりました。そのころのSoundwayはまだリイシューがメインで、出すコンピ出すコンピがぜんぶヤバかった。出たら全部買ってましたね。

ーいまはどうやってシーンをチェックしてますか?

雨宮:やっぱりネットですね。あと、昔から大好きで店でも取り扱ってるGalletas Calientes Records っていうレーベルがあって、そこのオーナーから教えてもらうことも多いです。新しいリリースや、これからやろうとしてる情報とか。このレーベルは、システマ・ソラールのファースト・アルバムのリミックスシングルを出してたので知ったんです。どこからも仕入れられなかったので、直接コンタクトを取りました。僕のお店のベースの一つですね。彼はフランス人で、僕が知った時はまだフランスで活動してたのが、そのあとコロンビアに移住したんです。自分のやりたいことに素直で、ビッグ・リスペクトなんですよ。やっぱり移住となったら、勇気がいりますからね。

トロピカル・ミュージック

ー現行のトロピカル・ミュージックを聞きたいと思っても、手がかりがないんです。ネットを探せば個々の情報はあるんだけど、それを整理するマップのようなものがない。もちろんガイド本なんか出てないし。

雨宮:僕の中にも、トロピカル・ミュージックのマップはないんですよ。お店もトロピカルミュージックの専門店ではないし。

ーたとえば、サルサやレゲエって、ジャンルとして確立してるじゃないですか。だからイメージもしやすい。でもトロピカル・ミュージックっていうジャンルは、まだそこまで確立してないものなのかなって。

雨宮:「トロピカル」っていうのは、ジャンルというより、ひとつのキイワードでしかないと思うんですね。カリプソやレゲエの中にトロピカル・ミュージックの要素はあるし、ブラジルにもアジアにもある。だから定義づけしにくいですよね

ーなるほど。鈴木さん(鈴木庸介。こちらのインタビュー参照)と話したときにも感じたんですが、発信する側の人たちも、シークレットな情報ルートを持ってるわけじゃない。探しまくってトライ&エラーを積み重ねるうちに、「トロピカル」というキイワードに対する基準ができていくのかな、って。だから、discos PAPKINのお客さんて、トロピカル・ミュージックのファンじゃなくて、雨宮さんのファンだと思うんですよね。

雨宮:そうかもしれないですね。トロピカル・ミュージックが何かって、僕もよくわからないですからね。

ーたとえば、トロピカルミュージックに興味あるんだけど何聞けばいいですか?って質問されたとしたら、どう答えます?レゲエの名盤何ですか?みたいなノリで。

雨宮:うーん。たとえば、これとか。

雨宮:Uproot AndyっていうDJBersa Discosから出した12インチ(レコード)です。出たのが2008年で、もう廃盤で手に入らないんですけど。ZZK(アルゼンチンのレコード・レーベル。デジタル・クンビアの火付け役となった。)と一緒に台頭してきたレーベルで、デジタル・クンビアの他に、パナマのレゲエやアフロ・コロンビアのリミックスも出してました。
これが僕の中でのトロピカルですね。アフロでカリブでハッピー。明るさが根底にあるものが好きなんです。キモを押さえてない人がやると、キラキラしすぎちゃうんですよね。聴いてて恥ずかしくなっちゃう。あんまりキラキラしすぎてもダメで、硬派な不良性もないといけない。

ーなるほど。マヌ・チャオなんて、不良性ありますもんね。そういえば、彼が出てきたころって、まだトロピカルっていうキーワードはなかったですよね?

雨宮:なかったですね。90年代はバルセロナが熱くて、「移民」「ディアスポラ」がキーワードだったと思うんですよ。音楽で言えば、ラテン、ミクスチャー、メスティサーヘですね。トロピカルって、2010年以降のキーワードなのかもしれない。バンパイア・ウィークエンドが出てきたのもその頃ですね。

ーなるほど。バンパイア・ウィークエンドからの音楽の流れも、トロピカルって呼ばれてますよね。トロピカルっていうキイワードが可視化されたのは、彼らがブレイクしたことも大きいのかもしれない。でも、あっちには不良性をあまり感じません。

雨宮:マーク・リボーのような、偽物っぽさを売りにする感覚が、ウィークエンド・バンパイアにはないですよね。ハッピーになりすぎちゃってる。

雨宮:彼らの思ってるトロピカルと、僕らの思ってるトロピカルって、きっと違うんですよ。「トロピカル」って、そのくらい実態のないものなんですよ。細分化されていろんなものが出てきて、面白くなっていくのはこれからじゃないですかね。

『キング・オブ・コメディ』

ーそういえばdiscos PAPKINの「パプキン」て、どういう意味なんですか?

雨宮:映画『キング・オブ・コメディ』の、ロバート・デ・ニーロが演じる主人公の名前から取ったんですよ。ルパート・パプキン。スペルは変えてますけど。

ーそうだったんですか!

雨宮:ルパート・パプキンは34歳で、僕も店をはじめたとき34歳だったんです。コメディアンになりたくて誘拐までやっちゃう。パッションというか、そのくらいの気持ちでやりたいな、って。

ー「パプキン」てなんだろう、って気になってたんですよ。最初は、かぼちゃのパンプキンかな、って思いました。

雨宮:主人公がなかなか名前を覚えてもらえなくて、パンプキンさん?って間違えられるシーンがあるじゃないですか。あれをやりたかったんです()。お店のショップ・カードも、映画の最初の方でパプキンがジェリー・ルイスに渡すカードをサンプリングしてるんですよ。「僕の誇りと喜びを」、って言って渡したカードが、実はPride&Joyっていう洗剤のカードだった、っていうシーン。

ーへー!そこまでは覚えてないです。

雨宮:まあ、そうですよね()。最初は、パプキン・レコーズにするつもりだったんですけど、CARIBBEAN DANDYの須藤(カズヒロ)さんに、discos PAPKINがいいよ、って言われて。

ーそれ、Discos Fuentesからですか?

雨宮:そうです!

ーなるほどー!しかし、扱ってる音楽から『キング・オブ・コメディ』は連想しないだろうし、そもそもスコセッシ&デニーロの中ではマイナーな作品じゃないですか。それとDiscos Fuentesって、さらに結びつかない。

雨宮:誰にも指摘されたことはないですね()

ーそういうこだわりって、いいですよね。気づかれない部分にこだわるって、無駄かもしれない。でも「無駄な情熱」こそが素晴らしいと思います。何かが滲み出してきて、ぜったい面白くなる。
それにしても、ルパート・パプキンに憧れてる時点で、ビジネスとしてどうなんだ、って()

雨宮:でもあの映画、パプキンが刑務所から出てきてベスト・セラー出して人気コメディアンになる、ってところで終わってますからね()

ーたしかに!() そのうちdiscos PAPKINからベスト・セラー級ヒットが出るかもしれない。

雨宮:そうだといいですね()。まあ、なんとか6年やってこれましたよ。店をはじめたときは30タイトルだけで、しかも各タイトルにつき1枚~3枚くらいしか仕入れてなかったんです。ビビりだから、在庫抱えたくなかったし、お金もなかったんで。それがいまでは1700タイトルくらいに増えましたからね。

ー初期衝動がすごいですよね。田舎からバンドやりたくて荷物ひとつで上京してきた少年のノリですよ。

雨宮:やるしかない!やるんだ!みたいな気持ちでしたね。

これから

ーここまでやってきて、次の目標やアイディアってありますか?

雨宮:実は、いまは制作に興味があるんですよ。レーベルをやりたいんです。Copa Salvo7インチ(・レコード)を出す話を進めてます。

ーいいじゃないですか!7インチだから、2曲ですか?

雨宮:はい。曲もできてるしデモもあって、あとはレコーディングするだけなんですけど、(Copa Salvoの)リーダーが新潟に住んでるのでスケジュール調整が難しいんですよね。やれることは先にやろう、って思って、ジャケットの撮影もして、プレス会社に見積もりも出してもらってます。レーベル・マークのイメージもあるし、あとは曲ができてくるのを待つだけなんですよ。Copa Salvo初の日本語詩なんです。今までと違う感じで、すごくいいですよ!

ー へー!聴いてみたいです。キャリアのあるバンドの初の日本語詩なんて、反響も大きいでしょうね。「新生Copa Salvo!」みたいになるといいですよね。

雨宮:そうですね。34枚とリリースを続けて、アルバムまで出したいと思ってます。

30枚からはじめて、6年やって、制作まではじめて、って、ひとつのサクセス・ストーリーだと思います。そもそも最初から、センター街に出店したりビル建てることを目標にしてないわけだし。

雨宮:ぜんぜん思ってないです。そういうことじゃないですからね。

ー節目ごとにCARIBBEAN DANDYの人たちやいろんな助けがあったり、お店のファンも含めて、音楽を好きな人たちが周りに集まっているのが素晴らしいですね。ビルなんか建てるより、とても健全だと思います。

雨宮:本当に、いろんな人たちのおかげですよ。DJとレコード屋で飯食っていけるんだ、っていうところを見せたいですね。なかなか音楽で食えない後輩を雇うくらいまでいきたいなーって思ってます。

ーそうなったら最高ですね!

 

雨宮 圭佑 (あめみや けいすけ)

山梨県甲府市出身。DJ CrewCaribbean Dandy」の一員としてFuji Rock Festivalなどの国内外のフェスから大小さまざまなクラブ、ライブハウス、バーなどで活動。これまでにレゲエ専門ではないDJ/クリエイターによるレゲエ・ミックスCDシリーズ「Strictly Rockers」から世界の裏打ちと銘打った「El Ritmo Del Mundo De Atras」をリリース。またコロンビアの名門レーベル「Discos Fuentes」の音源をセレクトしたクンビア・コンピレーション・アルバム「CUMBIAS CUMBIAS CUMBIAS CUMBIAS」の企画・監修・解説の執筆などを行う。2012年よりオンライン・セレクト・CD/レコード・ショップ「discos PAPKIN」をオープン。現在はネットだけでなく出張販売も頻繁に行っている。

http://discospapkin.com/

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廣瀬拓音(KPM)×しみずけんた(コロリダス、of Tropique)
ー明るく楽しいのが正しいー

廣瀬拓音(左)  しみずけんた(右)

“下町レア・グルーヴ” キウイとパパイヤ・マンゴーズ(KPM)と、”南米系みんなのうた” コロリダス。ラテン音楽をベースとしながらも、良い意味で「軽さ」のあるスタンスは、国内のラテン/トロピカル系のバンドでは珍しいだろう。メイン・ストリームとは程遠い音楽性でありながら10年以上のキャリアを持つ点も、共通している。
ヨーロッパをはじめ、アジアやアフリカでも頻繁にライブを行い、独自の活動を続けているKPMリーダー廣瀬拓音と、コロリダスのリーダーでof Tropiqueのメンバーでもあるしみずけんたの、ワールド・ミュージック対談。音楽ファンに愛される名店、武蔵小山商店にて。

[取材・写真 / 近藤哲平]

 

KPMとコロリダス

ーラテン系って真面目にルーツを追求するバンドが多いじゃないですか。どれだけ本場のホンモノに近づくか、みたいな。そんな中で、KPMとコロリダスは異質だと思うんですよ。歌ものだし、すごくポップだし。やはり昔から交流があるんですか?

しみず:最初は、イベントで一緒になったんです。2010年ですね。ちょうど(チャラン・ポ・ランタンの)小春ちゃん経由でKPMを知ったばかりで、パワフルにワールド・ミュージックをやってるのに詩はポップで乙女、っていうのが新鮮でした。

廣瀬:その頃は、小春はメンバーじゃなくってサポート的に混じってもらってた。まだアイツ1920歳くらいだったと思うな。

しみず:あのイベントのときって、まだコロリダスをはじめて2ヶ月ぐらいだったんですよ。

廣瀬:そうなんだ!

しみず:大学で同じサークルだった英心から企画ライブに誘われて、キューバから帰ってきたぽんを誘って3人で出たのが最初です。それまで、サークルの発表会でボサノバの弾き語りくらいはやってたんですけど、バンドははじめてで。

廣瀬:群馬にいるときは?

しみず:ロックが好きで、ギター弾いたり、ちょっとドラム叩いたりしてました。
ラテン音楽いいな、って思ったのは、高校生のときです。フジ・ロックに行ってマヌ・チャオを見て、レゲエとかスカとか、それまで聴いてたアメリカやイギリス以外の音楽に触れて。それで、大学ではサンバ・サークルに入ったんです。そしたら、サークルに音楽好きの先輩がいて、マヌ・チャオ知ってたんですよ!みんな知らないと思ってたから衝撃でしたね。
タクトさんは、上京する前はどんな音楽が好きだったんですか?

廣瀬:レゲエだね。もともとヒップ・ホップが好きで。中学のころは岐阜の無人駅からわざわざ名古屋まで通ってレゲエやヒップ・ホップのCD買ってたよ。でも、田舎でレゲエ・バンドやろうって思っても、誰も仲間がいない。中学校時代もバンドやってたけど、みんなスピッツとかミスチルがいいって言うわけ。俺は嫌いだったんだけど(笑)、しょうがないからやってた。
高校入ると、メロコア(※メロディック・ハードコア)・ブームがあったじゃない?

しみず:ありましたね。ハイスタとか僕も聴いてました。

廣瀬:でも俺はジャマイカぽいのやりたくて、吹奏楽部の女の子とか誘って無理矢理スカコアやツートン・スカみたいのをやってた。それが大学行ったら、レゲエやってます、っていうサークル(早稲田の中南米研究会)が勧誘ビラ配っててさ、しかも女の子がみんな可愛い()。ライブ見に行ったら、すごい美人のドラマーがワン・ドロップ(レゲエのリズム・パターンの一種)踏んでてびっくりしたね。あー東京来てよかったなーって。ぜったいこのサークル入ろうって思った。

KPMは、サークル内で結成したんですか?

廣瀬:俺とドラムの永田がサークルの幹事長と副幹事長だったとき、それまで学校からサークルに対して出てたお金が廃止されることになったんだ。それで、部費を稼ぐためにあわてて営業バンドを組んだのがKPMのはじまり。OBの結婚式や商店街のイベントで演奏してたね。

ー最初は、キウイ、パパイヤ、マンゴーちゃんの3人ボーカルだったんですよね?

廣瀬:うん。でもパパイヤちゃんは2ヶ月ぐらいですぐ辞めちゃって、キウイちゃんとマンゴーちゃんの2人ボーカルになったんだ。当時はもっとポップスみたいだったね。ボサノバっぽいコードでラヴァーズ・ロックをやる、みたいな。結婚式でも受けがいいし、女子大生が歌ってるっていうのでちょっと人気が出たんだよね。そのころ盛り上がってたカフェ・ミュージックのブームに乗って、Lampやモダーン今夜がいたMOTEL BLEUっていうレーベルから、CDを出したんだ。それがけっこう売れて、フジ・ロックに出たりして盛り上がっちゃって。でも、カフェっぽい音楽は営業バンドだからやってただけで、俺は本当は興味なかったわけ。それで、2作目から自分の好きないろんな国のフォーク・ミュージックの要素を入れていったら、みごとに売れ行きが下がっちゃった。そしたらあるとき事務所の社長が、どっか行っちゃったんだよね。夜逃げみたいな感じでばっくれちゃった。で、しょうがないから自分でやることにしていまみたいな形態にしたのが、2009年。

田舎と都会

廣瀬:その年に、いまのバンドの方向性につながる『Tropical Japonesqueっていうアルバムを自主制作で出したんだ。

廣瀬:そしたら、細野晴臣の「トロピカル三部作」を引き合いに出されたんだけど、じつは聴いたことなかったんだよ。知ってはいたけど、都会的なものにコンプレックスがあったから、聴かずにいたんだよね。

しみず:タクトさんって、「田舎と都会」っていうフレーズを、飲んでても口癖のように出すじゃない?田舎のコンプレックスみたいなのが、音楽にも影響してるのかな、って思うんですよ。俺は群馬なんですけど、田舎と都会っていう比較ではあんまり考えたことがなくって。いまはネットで好きな音楽を探して聴けるじゃないですか。自分の好きなものを突き詰めることができる。そういう時代にあって、都会と田舎の差って何ですか?

廣瀬:たとえば俺の田舎みたいな、親戚の中に誰も大卒がいないような環境だと、いまでも家にパソコンがない人も多いんだよ。本棚もない。スマホは持ってるけど、なにかを検索するまでに至らない。ストリーミング・サービスもそんなに普及してないと思う。

しみず : そうなんですか!

廣瀬:いわゆるセンスがいい、文化的な音楽に耳がいく人って、田舎だと皆無なんだよね。俺は、岐阜の山の中にバブル期に突然できた、分譲住宅地みたいなところで育ったのね。無人駅で、親戚はみんな同じ工場で働いてるような。興味がある本やCDを手に入れるのにも、すごい苦労した記憶がある。
東京に来て気づいたのは、センスがいい音楽やってる人って、家柄も良かったり、圧倒的に高学歴の世界なんだよね。俺は進学校にも行かなかったし、知的分野で話が会う友達と文化を共有して、っていうような体験がいっさいなかったから。子供の頃や思春期に手に入れられた情報に、すごい差を感じたんだよね。Apple MusicSpotifyが中学時代にあったらなーって思うよ。

ー でも、仮に中学時代にApple Musicがあっても、まわりにどれだけ使って人がいるかってことですよね?

廣瀬:そうそう!共有できないんだよ。

ー 情報や体験の差、ですよね。東京だったら、近くのお店に行けば人に会えたり、ライブに行ってミュージシャンと話したりできますよね。でも田舎だと、そういう場やコミュニティがないから、個人で突き詰めていくことしかきっとできない。

廣瀬:そうだね。いいものを勧めてくれる大人も皆無だしね。

コロニアル

廣瀬:日本の歌謡曲を考えてみても、センスがいいことをやってるのは都会で米軍基地に近いところにいた人なんだよ。トロピカルな音楽って、洋楽的なセンスを突き詰めていくと、コロニアルな雰囲気になるじゃない?

しみず:コロニアル?

廣瀬:うん。欧米人が植民地の音楽をセンス良くやる、みたいな。
俺は、日本の音楽的教養の土台がアメリカだっていうことに反発心があって、もうちょっとちがうことがやりたいな、って思ってて。外国に呼ばれて音楽やってると、同じような反発心を持った人がアフリカや中南米の僻地にいるんだよ。ただちがうのは、彼らは完全に植民地だったわけ。日本は植民地みたいとはいえ実際にはちがうし、自分でも植民地を持ってたじゃない?たとえば台湾大学みたいな植民地時代の建物って、帝国時代の名残なわけですよ。日本人としてそこに行った時の甘苦さ。音楽をやるときに、その違和感をもっと突き詰めたいね。楽しいけどそれだけじゃない、欧米ではできないことをやりたい。

しみず:そういう違和感をKPMで表現してるんですか?

廣瀬:そうだね。だから、音楽をやってる中にも風刺的なものがほしい。ヨーロッパやアメリカ、先進国の人達って、日本のことを仲間だと思ってるんだよね。でも、我々は本当は葛藤しながらあなたたちに合わせて生活をしてるんです、っていうことは発信したい。洋服の着かた一つでも頑張ってきていまがあるわけで。音楽でも、日本語だとサウンドより言葉の意味が強くなってしまう難しさがある。そういう葛藤もわかってほしい。

キャラクター志向

ーやっぱり海外での演奏体験が大きいんでしょうか。日本で洋楽をやっていても、コロニアル、っていう発想はなかなか出てこない気がします。

廣瀬:そうだね。日本は特殊ですよ。たとえば音楽を楽しむ作法もちがう。外国のフェスに行くと、みんな踊って享楽的に楽しんでるんだよね。でも日本だと、お客さんはみんなじっと聴いてて、楽しんでるのかどうか判別しにくい。ただ、キャラクターには執着するんだよね。音楽というよりはキャラクターの消費に近い。

ー ボーカルが可愛かったら人気が出る、みたいなことですかね?

廣瀬:そうそう。だからトークが大事なんだよ。MCがこんなに重視される国もないと思う。海外だと、ステージで喋ると客が引いちゃうんだよね。日本は逆で、喋らないと引いちゃう。
ポルトガルのレゲエ・バンドの友達が日本に来て、一緒にライブ見に行ったら、日本の客は素晴らしい!って感心してるんだよ。ダンス・ミュージックやってるバンドなのに、喋っても客が帰らない、なんて思いやりのあるお客さんだ、って。

しみず:へー!

廣瀬:どこの国でも、バンドやる上でキャラクターは大事なんだけど、日本の場合はキャラクターへのシンパシーが8割くらいのような気がしちゃうんだよね()
そういう、いろんな国に行って演奏する中で感じる違和感を音楽の中に混ぜ込みたいっていう気持ちがあるんだよね。モヤモヤやイライラをそのまま出しちゃったほうがスッキリするんだよ。

違和感を表現する

KPMの音だけ聴いてると、メッセージが前面に出てくるような印象はないですよね。ダイレクトに政治的なメッセージを歌ってるわけじゃないし、サウンドもいわゆるレベル・ミュージックのような激しいものではない。

廣瀬 : 試みたことは何度かあるんですよ。昔のj-pop時代の押しチューンだった 『八月のさよなら』 は、レゲエ風のポップな曲だけど、アメリカへのラブレターと思って書いたんだよね。「ありがとう、さよなら」って。8月って、終戦記念日もあるしね。

ーバンドのサウンド面で具体的に意識することってありますか?

廣瀬:たとえば、日本人って低音が嫌いだなーって感じるんだけど、ウチらはその低音を思いっきり出すようにしてる。
あとは和楽器。2009年かな、当時ボーカルだったうちのかみさんが、神楽坂の料亭で三味線弾いて歌いはじめて、バンドでもそれ弾こうよって。三味線や箏って、バンドと合わせづらいのね。ひとつのキイしか演奏できなくて、曲の合間にチューニングを変えなきゃいけなかったりするから。でも、合わないもの、不便なものを入れたほうがいいって直感で思ってる。

しみず:和楽器もそうですけど、メンバーそれぞれのルーツをそのままどかんと出してますよね。パンデイロがいたり、バイオリンとシタールがいたり。ゴチャっと混ぜてドーンと出す、みたいなイメージがあります。けっきょく音楽って。パッと聴いたときがすべてじゃないですか。そこをちゃんと大事にしてるのがいい。考えてることとフィジカルな快感のバランスがしっかりしてる。

廣瀬:そういうバランスは大事にしたいね。

海外進出

ーそもそも、どうしてそんなに海外に行くようになったんですか?それも、モザンビークとか、日本のバンドがあまり行かないようなところに。

廣瀬:最初は、フォホー(ブラジル北東部の音楽)を台湾語でやった曲が話題になって、台湾のフェスに出たんだよね。その後、スキヤキ(スキヤキ・ミーツ・ザ・ワールド。1991年より富山県で毎年開催されているワールド・ミュージックのフェスティバル。)のプロデューサーのニコラさんが、オーストリアのフェスに、KPMとサカキマンゴーさんのコラボ・ユニットで売り込んでくれたのね。そこで名が知れてヨーロッパの他のフェスからも依頼がくるようになったんだよね。アフリカもスキヤキの紹介で、スワジランドやモザンビークの、かなりイケてるキラキラ系フェスに出たのね。パリピがいっぱい行くような()。外国のフェスの人たちって、みんな次のネタを有名無名問わず探してるところがあるから、見た人がまた別のフェスに誘ってくれるっていうことが続いたんだよね。

しみず:そういうイベントはスキヤキみたいなものが多いんですか?ワールド・ミュージックのイベントの日本枠みたいな?

廣瀬: いや、たまにはそういうこともあるけど、基本はもうバンドとしてだね。日本は景気も最悪だし、出稼ぎみたいな気分だよ()。フェスに出てギャラをもらっても、短期的にはそんなに儲かるわけでもないんだけど、現地のラジオのCM音楽の制作依頼なんかも結構あるんだよね。アメリカの映画プロダクションが曲を使わせてくれって言ってきたこともあるよ。曲の版権も自分で持ってるから、いろんな意味で出稼ぎ感あるよね。

ー 海外に行きたいっていう気持ちは以前からありました?

廣瀬:あったね。日本語で歌って外国の人に聴いてもらうのが、若い頃からの目標だったから。俺たちは、歌詞の意味がわかんなくても英語やポルトガル語の曲を聴くじゃない?その逆ができないと悔しいっていう気持ちがあった。いま外国のフェスに呼ばれたり、音源を買って聴いてもらえてるのは、目標がかなった感じがするね。微妙な規模だけど()

しみず: 言葉がわからずともサウンドで伝わってる確信が持てるのは、うれしいですよね。

廣瀬:それは喜びだね。

ワールド・ミュージックとメッセージ性

しみず:コロリダスは、ワールドミュージックの、言葉がわかんなくても楽しいっていう部分をやりたかったんです。音楽でマッサージする、みたいな。「南米のみんなのうた」っていうイメージで、ポップに落とし込むことを意識して。歌詞も、誰でも歌いやすいように語呂をよくして、メッセージはあまり入れずに、日常生活の歌っていう感じで作ってます。あと、言葉が少ないほうが、意味を広くとってもらえるかもっていう感覚もあるかな。

ー言葉が少ないと、解釈の自由がありますよね。ワールド・ミュージックには、政治的な言葉を使えないから日常の言葉に意味を託す、ダブル・ミーニングを持った歌詞も多い。それって、当時その場所に生きてた人にしか全部は伝わらないかもしれない。でも、ちがう時代のちがう場所の人が聴いたときに、自分たちの問題とリンクさせて、ぜんぜん別の意味を発見するっていうこともあると思うんです。抽象的な歌詞って、そうしてどんどん広がっていく可能性を持っている。

廣瀬:直感で発した言葉のほうが時代を反映することってあるよね。だからポップスや大衆歌謡は強い。

 しみず:コロリダスでスキヤキに出た時に、グナワ・ディフュージョンのアマジーグが、トークショーで「ワールドミュージックはメッセージだ」 て言ってたんですよね。政治的なメッセージを強く考えてるんだなって、すごい印象に残って。でも、コンゴの電気カリンバのコノノNo.1の人とかは、「鳥が止まってるよ~」とかそのぐらいの歌じゃないですか()

廣瀬:アマジーグはアルジェリア系の移民の2世だからね。フランスで生まれて育ってるし、政治的にダイレクトなんだよね。でも、楽しいって言ってるだけでも、それはもうメッセージなんだよ。音楽に限らず、文化様式はすべて政治経済軍事の影響を受けて成り立っていて、それらのパワー・バランスが意味を持っちゃう。だから、存在だけでもメッセージになるし、全部がメッセージだなって思う。日本人の俺たちが洋服やあるいは和服を着てレゲエやってるっていうだけで、メッセージだからね。KPMの俺以外のメンバーも、Go Araiはシタール弾いてTaikuh Jikangでガムランもやってて、ドラマーの永田は在日ファンクっていうバンドでファンクやってる。ギターの大森先輩がグレッチ弾き倒す。ガチの箏曲者の浩恵ちゃんがダブをやる。それだけでメッセージ性があるよね。

しみず:なるほど。オブ・トロピークも各メンバーのバック・グラウンドはちがうけど、そこまで考えてはいないかな。インストで歌詞もないし。

廣瀬:オブ・トロピーク、よく聴いてるよ。ちょうど東アジア圏でシティ・ポップ的なものがライズ・アップしてきたよね。来なかった近未来、みたいな感じで。センスがいい洋楽を学んで教養もあるミュージシャンがそっちに行くのは、必然の流れだなって。でも、韓国や台湾にも知り合いのミュージシャンは多いけど、彼らは、才能や実力の如何は問わず、先進国のミュージシャンがやるようなトロピカルでメタ視点のセンスのいい音楽はなかなかできない。それは日本とアジア圏のちがいかなーって。俺たちは、ただ気持ちよくトロピカルを消費することもできるんだなっていう。良くも悪くも、それは植民地主義の時代を経た上での、過去の貯金ですよね。

しみず:うんうん。

明るく楽しいのが正しい

廣瀬:まあ、気持ちよければ何でもいいんだけどね()。たとえば今度のイベントで、最後に一緒に演奏するじゃない? KPMには台湾語の曲もあるし、ちがう言語で歌うのもいいなーと思ってるんだよね。朝鮮語で君が代を歌ったこともあるけど、まあ君が代をやってもね()。タガログ語とかいいかもね。

しみず:面白そう!

ータガログ語で歌う意味をその場で考えるお客さんって、多くはないと思うんですよ。でも、意味はわからなくても語感は新鮮だし、それだけできっと面白がってくれる。そういう、よくわかんないけど楽しい、っていう体験って、記憶に残るじゃないですか。そうすれば、10年後にふとしたきっかけでライブのことを思い出して、そこから何かを考えはじめる人もいるかもしれない。そのためにも、まずはとにかく楽しんでもらえるライブにしたいですよね。

廣瀬:そうだね。そういえば、一緒のバスでスキヤキに行ったとき、コロリダスのアレグリア(スペイン・ポルトガル語で「喜び」)な感じがうらやましかったんだよね。俺は享楽的であろうと意識してがんばってるんだけど、彼らは自然ていうか、躁状態ギリギリ寸前の3人組が隣にいるわけ()

ーだいぶ屈折してますね!()

廣瀬:やっぱ明るく楽しいのが正しいんだよ!()

しみず:楽しくいきましょう!

 

廣瀬拓音(ひろせたくと)

昭和56年岐阜県出身、東京都在住。熱帯ダンス歌謡楽団『キウイとパパイヤ、マンゴーズ』(ベース担当)、ブラジル北東部の伝統芸能マラカトゥ・ナサォンをベースとした打楽器集団BAQUEBAを主宰。広く国内外での演奏活動の他、TVCM、映画に向けた音楽制作から各種媒体での文筆活動まで。料理、野球(中日ドラゴンズ)盆踊り(郡上おどり)そして熱帯をこよなく愛す山男。

しみずけんた

音楽家。飲み屋。コロリダスのリーダーとしてボーカル、ギター、カバキーニョ、作詞&作曲を担当。チリンとドロン&しみずけんた、Love Samba DEESof Tropique、東京キャラバンに参加する他、ソロでの弾き語りでも活動中。CMや舞台などの音楽制作、楽曲提供なども行なっている。2018年熊本に路地裏音楽酒場きびきびを開店。

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岡本郁生(a.k.a.エルカミナンテ岡本)インタビュー
-ラテンは怖くない-

エルカミナンテ岡本。エルカミナンテとは、「旅人」「探求者」という意味だ。名付けたのは河村要助。伝説的イラストレーターであり、日本にラテン音楽を広めた重要人物のひとりだ。師匠がつけた名前だから捨てられない、と照れるが、ラテン音楽を愛しまっすぐに進んできた姿は、「探求者」そのものに見える。
of Tropique のキイワードのひとつは「ラテン」だ。ラテン音楽に造詣の深い人物として、ぜひ話を聞きたい。案の定、自身の音楽遍歴から、日本のラテン音楽シーンの流れ、ダンス教室文化ができた経緯など刺激的な内容ばかりで、予定時間を超えた濃厚なインタビューとなった。日が暮れゆく渋谷、音楽関係者も多く通うバー、Li-Poにて。

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“La Palma”製本担当 岩瀬学(図書印刷)インタビュー
– どんなアイディアも形にする、装丁のマエストロ –

「岩瀬さんならなんとかしてくれる」
「困ったら岩瀬さんに」
特殊な装丁のアイデアを形にするプロフェッショナルとして、業界でも独自の存在感を放つ、岩瀬学 。
祖父江慎、 町口覚など傑出した装丁家の、数々のエキセントリックな製本を手がけてきたことでも知られている。
『La Palma』の「飾れる本」というアイデアも、彼がいなければ実現できなかっただろう。
どうして現在のようなポジションにたどり着いたのか。
オークラ出版の編集者として共に3冊の書籍をつくってきた長嶋瑞木による、貴重なインタビュー。

[聞き手 / 長嶋 瑞木、 写真 / 近藤哲平]

スナフキンみたいな存在

ー 岩瀬さんは、なんという肩書きになるんでしょうか?

岩瀬:いまは「製本コンシェルジュ」って名乗ってます。製本に関することなら何でもやりますよ、と。

ー 製本に関する相談役っていうことですか?

岩瀬:スナフキンみたいなね。ちょっと離れたところにいて、誰かが相談に来ると「こうすりゃいいんじゃない?」って言う。

ー おもしろいポジションですね。他にもそういう立場の人はいるんですか?

岩瀬:いや、いません。僕の前にもいませんでした。当時、製本に詳しい人間を東京に置いてクライアントへのフィードバックを速くしたかったらしく、僕が本社に呼ばれたんです。
それまでは、沼津工場で設備の仕事をしてたんです。製本機など機械の修理をしてました。溶接したり切ったり、楽しかったですね。

ー じゃあ、製本に1番詳しい人っていうことで選ばれて。

岩瀬:私より、たとえば工場長の方が詳しかったですけどね。やっぱり選ばれたのは嬉しかったですよ。
2~3年で沼津に戻されるかと思ってたんですが、こうして6~7年もやらせてもらえてるってことは、それなりの価値を認めてくれてんでしょうね。

ー 岩瀬さんがいるから図書さん(※図書印刷。岩瀬の勤務する会社。)に頼むっていうことがあるから、印刷会社としてのブランド力を上げてる気がする。出版社もそうですけど、会社の色や特色、ブランディングがないと生き残れる時代ではないと思っていて。私の中では図書さんは岩瀬さんだなと思ってるんですよ。

岩瀬:そう言っていただけるとありがたいです。

見たこともない機械を直す

岩瀬:会社に入ったのはバブル時代で、大学にはものすごい量の求人が来てました。一人につき100社ぐらい。会社見学に行くと食事付きでしたよ。人数足りないからって呼ばれて、飯だけ食いに行くこともありました。

ー 本を作りたかったんですか?

岩瀬:もともと映像がやりたかったんですよ。会社案内に「映像制作」って書いてあったんです。でも入ってみたら工場勤務になって、それまで見たこともなかった機械を直したりしてました。ただ、こっちも大して考えてませんでしたけどね。サラリーマンとは違う、普通じゃない仕事がしたいなと思ってたんですよ。だから、ゲーム会社も受けましたし。ゲームなんて作ったことないのに(笑)。もちろん受かりませんでしたけどね。
それと、東京に住んでみたかったんです。生まれが名古屋で大学は静岡だったんで、一度は東京に住んでみたいと思ってこの会社を受けたんですよ。でも受かってみたら静岡勤務だったという(笑)。
結果として良かったですけどね。やっぱり現場での経験が、いまに活かされてますから。製本屋のおやじと話が合いますよ。あの機械のあそこのギア壊れやすかったよね、 なんて言って。

ー そこまでわかる人は確かにいないでしょうね。印刷会社って、現場の人や職人さんとどれだけ話ができるかが重要だと思うんです。職人さんが岩瀬さんに気を許して対等に話ができるのは、そういう理由だったんですね。

岩瀬:詳しいのは僕だけではないんですが、得意先に近いところまで出てくる人は、あんまりいないですね。

ー たしかに、現場の近くにいる岩瀬さんみたいな人に直接相談ができるのって、私が知っている限りでは図書さんだけですね。凝った製本になってくると、営業さんだけが窓口だと、話がなかなかスムーズに進まなかったり、「できない」理由を教えてもらえなかったりしますもんね。

岩瀬:ウチも基本的には、出版社とやり取りするのは営業担当です。ただ、やっぱりワンクッション置くと伝わらない場合もあるので、営業担当に呼ばれればいつでも行きます。

サッカーゲームでハードボイルド

ー 映像がやりたかったということですが、映画が好きだったんですか?

岩瀬:学生時代には、映画を作っていました。静岡大学の映画研究部は、僕らの代が作ったんですよ。

ー えー!見たい!タイトルは?

岩瀬:いやいや。『オーレ』ってやつですけど。

ー どんな話なんですか?

岩瀬:ハードボイルドです。 酒場で勝負する話。酒場での勝負って、だいたいカードじゃないですか。でもカードだと本格的すぎると思って、サッカーゲームで勝負するっていう。

ー え!サッカーゲームでハードボイルド?

岩瀬:まあ、ふざけたやつですよ。勘違いしたハードボイルド(笑)。でも、思っていたクオリティにはならなくて、喜びと悲しみが半々でした。

ー 他にも撮ったんですか?

岩瀬:その前にもう1本撮りました。学園で起きた事件を部員たちが解決する、っていう、よくある話ですよ。みんな死んでくのが見せ場です。

ー え?

岩瀬:10分ぐらいの映画で、登場人物を紹介した後すぐに、みんな死ぬんですよ。

ー え!10分でみんな死んじゃうんですか?

岩瀬:死にます。

ー どんな映画ですか!(笑)

岩瀬:学園で怪事件があってみんな死んでく、っていう。 それで、死んでいくシチュエーションは自分で考える。自分の見せ場なんだから、もう死にたいように死ね、と(笑)。

ー 斬新(笑)。じゃあ、好きな映画はどんなのでした?

岩瀬:侍映画と西部劇が好きでした。80年代ですから、すでに西部劇は斜陽で過去のものだったんですが、映画をいろいろ教えてくれた人が(クリント・)イーストウッドのファンだったんです。あとは三船敏郎。だから映画は古いものしか知りません。

ー 本はどうでしたか?

岩瀬:本も好きでしたが、読むものは限られてました。SFか、映画に関する本か。

ー 映画の解説とか?

岩瀬:そういうのも好きでしたよ。専門的なものは読まなかったですけど。キネマ旬報より映画秘宝。くだらないものが好きでしたね。高尚な映画は苦手で。タルコフスキーも見たけど、寝たし(笑)。
でも、たいして見てませんよ。いちばん見たときだって年間100本超えてないですから。見てる人は300本、400本て見てるし、しかもそれが楽しい、っていう。まあ、そういうところで、映画は違うなと思ったんですね。

印象深い仕事

ー いままで手がけた装丁で、印象深いものを持って来てもらったわけですが。

岩瀬:では、まずはこれ。

『Daido Moriyama: Dazai』(ブックデザイン:町口覚)

ー 出た!これはやばいですね。

岩瀬:太宰(治)の文章と森山大道の写真を組み合わせた本です。 紙の上から特殊なフィルムを貼ってます。透明なフィルムの上に、繊維が植わってるんです。


ー 紙の断面がふわふわ。これは、どういう依頼だったんですか?

岩瀬:最初は、全ページそれぞれ形を変えたいって言われたんですよ。ページごとにぜんぶ変えたいって。でも金がかかりすぎるんで、なんでそうしたいのか理由を聞いたんです。そしたら、断面に表情が欲しいって言うので、こういう方法を提案したんです

ー これは前にもやったことがあるんですか?

岩瀬:ないです。並製本の背中を切る「ミーリング」をした本というのはあったんですけど、これは「ファイバーラッファー」っていう、細かい歯が入る加工です。それを使って試しに束見本(※サンプル版)を作ってみたら、気に入ったらしくて。パリに持っていったら大受けだったそうです。

ー 岩瀬さんが思いついた提案がデザイナーさんに通って、パリに渡って認められたって、すごいですよね。やっぱり、理由を聞いて「じゃあこんなのは?」っていう返しができるのが岩瀬さんの魅力ですね。

岩瀬:もちろん、全てに対応できるわけではないけど、出版社や作り手のやりたいことを聞いて、持ち帰って、知ってる加工を思い出したり、機械のことを思い出したりして考えます。「こうしたらどうなるのかなー」って試行錯誤して、束見本をつくりながら。失敗することも多いですけど(笑)。

ー この本、箔もがっつり押されててかっこいいですね。

岩瀬:これはカラ押し(素材に熱と圧を加え、くぼみだけで表現する技法)なんです。繊維が邪魔して色が乗らなかったんですよ。カラ押しも、限界まで深く押してる。町口さんは立ち会いにいらっしゃって、部分ごとに別々に押せって言われて。面積が狭い方が深く押せますから。それを現場に伝えたら、えー!って言われて。「 別でやんの?」「 ちょっと強く押したいんだよ」「 一気に押させてもらえませんかね」「いやーそこをなんとか」って。

DICカラーデザイン㈱ 創業110周年記念いろどりノート

岩瀬:これはモレスキンみたいな上製本で、クロス(布)ですね。オフセット印刷できるクロスがあるんですよ。普通、クロスには箔押しかシルク印刷しかしないんです。これも印刷屋泣かせなんですが。

『Présage』石橋英之

岩瀬:これは、ベルベットPPっていう風合いのいいフィルムなんですよ 。

ー べルベットPPの上に箔を押してるんですか

岩瀬:そうです。これだけの面積の箔を押すっていうのも、まあ怖いんですけど。

ー 質感がいいですねー。写真集ですか?

岩瀬:開く写真集なんですよ

ー おー!

岩瀬:見開きで見るとノドがあるじゃないですか。それが嫌だったらしいんです。 全体の1/3がこの仕様になっています。

オークラ出版と

岩瀬:長嶋さんとも、いろいろやりましたね。『みんなの映画100選』のときが最初で。このページ数と紙の厚さでコデックスやるのは、うちでもやったことない仕様だったので、何回も束見本を出して耐久性を見てみて。あと、表4(背表紙)の文字を、ぜんぶ箔押ししたんですよね。

岩瀬:これは、知ってる人に見せると、おー!って言いますね。書店に並ぶと、やっぱり風合いがいいですよ。全面に箔ってのは費用もかかるので、なかなかないですしね。豪華な1冊になったと思います。あのときも長嶋さんから、箔をなるべく強めに押してくださいって言われたなあ。

ー これは大変でしたね(笑)。岩瀬さんが嫌がりそうなお願いもけっこうあった気がします。でも、快く向き合っていただいた覚えがありますね。もちろん、本としての中身がおもしろい自信もありますが、デザイナーと岩瀬さんのおかげもあって、あの本ができたと思います。

岩瀬:今回の(“La Palma”の)場合は、最初から「立たせたい」ってことでしたね。シンプルな構造で立つようにしたい、と。それで、制作メンバーというか、著者の方々ですよね、みんなで話し合って、意見をいただいて。作り手の人たちの意見を直接聞けたので、持ち帰っていろいろ考えることができました。
ハードカバーを二重にするっていう製本を新しく考えたんですが、足になる外側のカバー部分を固定できなかったので、最初は乗り気じゃなかったんですよね。

ー 束見本を作っていただいたんだけど、そのとき岩瀬さん、すごい曇った表情でしたよね(笑)。固定できないから難しいかもって言いながら、不安げに束見本を出してくれて。そこからまた、デザイナーをはじめとするof Tropiqueの方々とみんなで相談して。ああでもないこうでもないって言いながら、穴あけたら固定できるんじゃない?ってカッターでその場で穴を開けてみたりして。他にも挟む、折る、とかいろんなアイディアが出ました。

岩瀬:表紙が二重っていうのは僕も聞いたことがないですよ。いい感じで終わって良かったです。こうやって、やりとりを重ねながら、自分が出した案にさらに案を付け加えてもらって製本が生まれるのは、すごく楽しいですね。

ー 今回、新しくイチから作ってもらったわけじゃないですか。そういうのって年に何回くらいあるんですか?

岩瀬:そんなにないですよ。やっぱり、普通よりちょっと凝ってる、っていうものが多いですね。イチから考えるのは、年に1〜2回だと思います。

岩瀬:過去に例がないものを作ると、納品まで問題なくいけるかという不安が常にあります。途中までうまくいっていても、わずかな条件の差で不良品に変わってしまうことがあるんですよ。危ない点が100個あったとして、100個ぜんぶを相手に伝えられるか。そうやってがんばって形になると、やっぱり誇らしいし、さらに相手が喜んでくれたら一番ですね。
今回は、提案したものが形になったので、嬉しかったですよ。ほぼゼロからでしたからね。やっぱりこういう本が売れてくれると、喜びもひとしおです。人に見せたりもしますし、知り合いが持ってたりすると、語っちゃいます。「実はこれはさー・・・」みたいな話を長々と(笑)。

ー いやー無事に出来て良かったです。これで岩瀬さんとは3作目ですね。

岩瀬:いいもの続けてつくれてるんで、こっちも楽しいですよ。今後もおもしろいものをやっていけたらいいですね。1年でできたんで、次の1年でもう一冊できますよ!(笑)

岩瀬 学

図書印刷株式会社、製本コンシェルジュ/シニアマネージャー。1989年図書印刷入社以来、製本技術に携わる。2010年より製本に関するご相談や要望に応えるコンシェルジュ活動を展開中。

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坂口修一郎(Double Famous)インタビュー
– 大事なのは、匂いを嗅ぐこと –

しみずけんた(左)  坂口修一郎(右)

東京発エスペラント音楽集団Double Famous。1993年結成。無国籍インスト・バンドとして、今年で結成25年。世界中のローカル・ミュージックへの愛にあふれたサウンドが、多くの音楽ファンを魅了し続けている。of Tropiqueと方向性も近く、インスト・バンドとしても大先輩だ。流行とは距離を置いた音楽性を保ちつつ、どうやって長年バンドを続けてこれたのか。
バンドのスポークスマン・坂口修一郎に、of Tropiqueの母体となったコロリダスの頃から親交のあるしみずけんたが、話を聞いた。

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鈴木庸介(Disk Union)インタビュー
– クラブ・シーンのど真ん中でラテンが花開く –

オブ・トロピークのキイワードのひとつは、「ラテン/トロピカル」だ。しかし、ラテン/トロピカル・ミュージックとは何かと聞かれたら、答えるのは難しい。あまりにも多くの国の音楽、あまりにも様々なリズムを内包していて、ひとことで表すのは不可能にすら思える。調べてみても、明快な説明にはお目にかかったことがない。
「ラテン鈴木」と呼ばれる人物がいるらしい。ラテン音楽を得意とするDJとしてクラブ・シーンで活動し、現在はDisk Unionに勤務しながら現在進行系のラテン音楽を精力的に紹介しているという。広い視野を持った、若く、とんがった、熱い男だと評判だ。ラテン/トロピカル・ミュージックを理解する手がかりが得られるかもしれないと、話を聞くためにDisk Union本社へ向かった。

[取材・写真 / 近藤哲平]

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長久保寛之(Exotico De Lago)インタビュー
– 本質は「無駄」の中にある –

エキゾチカと言えばこの人、長久保寛之。国内屈指のエキゾチカ・バンドのリーダーにして、個性派ギタリスト。of Tropique の最初のレコーディング・セッションでも、センスあふれるギターとベースを披露してくれた。
“ぼっちゃん”を知ったのは、光風(みつかぜ)&グリーン・マッシヴのギタリストとしてだった。レゲエ/ロックステディのミュージシャンだと思った。だから、多重録音によるソロ・アルバム “Rock Exotica Steady” を聴いたときは驚いた。ただのロックステディではない。音楽の「型」を突き抜けて、「エッセンス」が聴こえてくる。それを「音楽愛」と呼んでもいい。偶然このアルバムを耳にした曽我部恵一(サニーデイ・サービス)が自身のレーベルからのリリースを即断したというほどの、隠れた傑作アルバムだ。どんな人なんだろう。どんな音楽を聴いてきたんだろう。
若い頃はルーツ・ロック・バンド、カリフラワーズのメンバーでもあったという一筋縄ではいかない個性は、どこからきたのか。逗子のビーチハウスSurfersで、ハンバーガーをほおばりながら、音楽遍歴を語ってくれた。

[取材・写真 / 近藤哲平]

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近藤哲平(of Tropique )インタビュー
– 「驚き」を追い求める、特異なクラリネット奏者 –

近藤哲平は変だ。ある日はサザン・ソウル、ある日はムード歌謡、ある日は寄席でも演奏する。一般的な「クラリネット奏者」のイメージとは、およそ似ても似つかない活動ばかりだ。かと思えば、実はニューオリンズ大学で音楽を4年間学んだ経歴を持つ。そして今度はエキゾチカ・バンドのフロントに立ち、本を作ってしまった。どういうことなのか。東長崎クレオール・コーヒー・スタンドで、壁にかかる輸入レコード盤に囲まれながら、話を聞いた。

[聞き手 / 早野隼、写真 / 白岩五月]

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“La Palma” ビジュアル担当 オタニじゅん インタビュー
− 「どこか変」な世界を描くわけ −

音楽と絵のコラボレーションで架空の南の島を描く、空想トラベルブック『La Palma』。飾れる本という斬新な発想が目を引くが、音楽も絵もかなり個性的だ。

洗練された描線の中にどこか奇妙な感覚を宿すイラストレーションを手がけたのは、オタニじゅん。フリーのデザイナーとしての活動と平行して、ラテン界隈のイベントのフライヤーを手掛け、その独特のタッチには長年のファンも多い。だが、それらは言ってみれば裏方仕事。いままで彼の名前が前面に出る機会は限られていた。

今回の『La Palma』が、実質、初の作品集だ。にも関わらず、これまでの手描きのスタイルから一転、デジタルでの制作へと踏み出した、知られざる個性派に迫るインタビュー。

[取材・写真 / 近藤哲平]

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