岡本郁生(a.k.a.エルカミナンテ岡本)インタビュー
-ラテンは怖くない-

エルカミナンテ岡本。エルカミナンテとは、「旅人」「探求者」という意味だ。名付けたのは河村要助。伝説的イラストレーターであり、日本にラテン音楽を広めた重要人物のひとりだ。師匠がつけた名前だから捨てられない、と照れるが、ラテン音楽を愛しまっすぐに進んできた姿は、「探求者」そのものに見える。
of Tropique のキイワードのひとつは「ラテン」だ。ラテン音楽に造詣の深い人物として、ぜひ話を聞きたい。案の定、自身の音楽遍歴から、日本のラテン音楽シーンの流れ、ダンス教室文化ができた経緯など刺激的な内容ばかりで、予定時間を超えた濃厚なインタビューとなった。日が暮れゆく渋谷、音楽関係者も多く通うバー、Li-Poにて。

[取材・写真 / 近藤哲平]

 

 舟木一夫と吉田拓郎とジェームズ・テイラー

ー還暦おめでとうございます!

岡本:ありがとうございます。まわりの音楽関係者にも、今年還暦の人間が多いんですよね。ちなみに、マイケル・ジャクソン、プリンス、あとマドンナもですよ。

ーそうなんですか!

ーいまさらですが、岡本さんのことよく知らないんですよ(笑)。本やWEBに執筆してたり、DJやイベントもやってたり、名前はあちこちで見るんですけど。なので今日は楽しみです。
まずは音楽遍歴から聞かせてください。

岡本:岩手の一関で生まれました。いちばん最初の音楽の記憶は、「スーダラ節」ですね。3〜4歳じゃないかな。幼稚園のころは、舟木一夫の「高校三年生」が好きでした。送迎バスの中で、みんなを先導して「高校三年生」を歌わせてて、先生から苦情が来たらしい(笑)。

ー音楽を意識するのが早いですね。

岡本:長男で、まわりに(音楽を聴いてる)大人もいなかったから、小学生のときはテレビで流れる歌謡曲しか聴いてなかったですけどね。グループ・サウンズ全盛期でした。
中1のときに吉田拓郎を聴いて、衝撃を受けましたね。たぶん1月か2月、学校から帰ってテレビをつけたら、たまたま「結婚しようよ」を歌ってたんです。

ーどんなところが衝撃だったんですか?

岡本:なんだろう。新鮮だったんでしょうね。

ー「フォーク・ミュージック」っていう音楽が、新しく思えたんでしょうかね?

岡本:そうですね。それまで聴いたことないような。とにかくものすごいショックでした。アコギ(※アコースティック・ギター)で歌う人は、森山良子やマイク真木もいたけど、それは歌謡曲の流れだったから。
中学に入ると、洋楽も聴きはじめました。当然、ビートルズとかストーンズ。ビートルズは解散したばっかりでした。当時は、AMラジオで普通に洋楽がたくさんかかってたんですよ。T-REXやスリー・ドッグ・ナイト。ギルバート・オサリバンが「アローン・アゲイン」で出てきて、サイモン&ガーファンクルがいて。ディープ・パープルの「ハイウエイ・スター 」もそのころです。あとはシカゴ、カーペンターズ。かぐや姫の「神田川」が流行っていて、さだまさしがいたグレープとかも悪くないな、って思ってました。でもだんだん、洋楽の方がかっこいいな、って思うようになってきて。ジェームズ・テイラー、ニール・ヤング、キャロル・キングにはまりました。

 ニュー・ミュージック・マガジンと宝島

岡本:中3のとき、岩手から千葉に引っ越しました。 高校は県立千葉高校っていう県内一の進学校で、結構ひねくれたやつがいましたね。サエキけんぞうと同級生なんですよ。1年下には、ゲルニカの上野耕路がいました。

ーすごい高校ですね!

岡本:サエキくんとはクラスが一緒になったことはないけど、音楽好きどうしみんな知り合いで。
当時は、音楽雑誌が面白かったんですよ。ニュー・ミュージック・マガジンと宝島をみんなでまわし読みしてました。けっこう小難しいことが書いてあるんですよね。

ー確かに昔のミュージック・マガジンを読むと、みんなロック喫茶とかで議論をしてますよね。しかも思想的な。いまの音楽ファンの温度とは違うなーって思います。

岡本:音楽だけじゃなくて「カルチャー」の要素が強かったですね。宝島は、ヒッピー系の思想があって、(ミュージック・)マガジンとは別の視点でいろんな音楽を取り上げていました。 グレイトフル・デッドとか。マリファナ系なんで(笑)。

ーなるほど(笑)。

岡本:そのころ、ジャズにも興味を持ちはじめました。FM東京の深夜番組があったんですよ。平日の深夜 1時から3時までの放送で、毎日パーソナリティが違う。月曜日は片岡義男の「気まぐれ飛行船」。片岡さんと毎週いろんなゲストが対談するんです。そして火曜が、油井正一先生の「アスペクト・イン・ジャズ」。 これでだいぶ勉強しました。毎月一人のミュージシャンを特集するんです。2時間番組が月に4回だから、正味8時間。今月は(ジョン・)コルトレーン、来月はアート・ブレキーっていう風に、その人の代表曲を古い順に、しかもフルで流すんです。まあ、番組の後半はだいたい寝ちゃうんですけどね(笑)。この番組を聞いてジャズ・ファンになった人は多いですよ。

サンタナとファニア・オール・スターズ

ーラテンを聴きはじめたのは、いつごろですか?

岡本:高校からです。でも最初に触れたのは、やっぱり中学時代に聞いたサンタナですね。「オジェ・コモ・バ」とか、普通にラジオから流れてましたから。「ラテン」って意識はしてないけど、普通のロックと違ってかっこいいなと思いましたね。

岡本:当時のマガジンでも、河村要助さんと編集の藤田正さんが中心になって、ニューヨークのサルサを紹介しはじめたんです。
76年には、ファニア・オール・スターズが来日しました。僕は受験で、行けなかったんですが。

ー有名な『Live at the Cheetah』は何年でしたっけ?

岡本:71年のライブで、発売が72年ですね。

岡本:ファニア(・オール・スターズ)の来日は、お客の入りはあまり良くなかったみたいだけど、日本の音楽界にとって大きな出来事でしたね。

ーそれ以前には、サルサ・ミュージシャンの来日はなかったんですか?

岡本:ないです。マンボのミュージシャンは来ていて、60年代にはマチートも来日してるんですけどもね。それ以前も、トリオ・ロス・パンチョスはいたし、マンボが流行ってそこからラテン歌謡が生まれたり、っていう流れはあったんですが、それらは大人の音楽っていうイメージでした。衣装の袖にヒラヒラがついてたりして(笑)。美空ひばりの「お祭りマンボ」のような歌謡曲の流れではなくて、ロックのような新しい音楽としてサルサを聴いてました。

サルサの目覚め

岡本:日本のレコード会社も 、「これからはサルサだ!」って盛り上がってアルバムをいっぱい出したけど、セールスはいまいちで、あっという間にどれも廃盤になりましたね。

ーサルサが一気に根付いたわけじゃなかったんですね。

岡本:日本人て、一気に盛り上がってサーっと去るところがありますからね。ただ、種は撒かれたんですよ。クロコダイル(※現在も原宿にあるライブハウス)で『サルサ・デ・ダンシング』っていうイベントがはじまって、そこでオルケスタ・デル・ソルが毎月ライブをやるようになったんです。そのイベントからオルケスタ・デ・ラ・ルスやチカ・ブーンが出てきた。

ーファニアの来日に刺激を受けた若者たちが、自分たちでサルサをやりはじめた、ということですか?

岡本:そうそう。オルケスタ・デ・ラ・ルスをはじめた人たちは、(オルケスタ・)デル・ソルのライブに毎月通ってましたね。他にも、オルケスタ246っていうてバンドや、いくつかあったんですよ。
そのころ僕は、早稲田大学に入って、モダン・ジャズ研究会でウッド・ベースを弾いてました。タモリさんの後輩ですね。でも、だんだんラテンの方が楽しくなってきた。

ーラテンに向かっていったのは、やはりファニアの来日が大きかったんでしょうか?

岡本:はい。あと同じころ、76~77年くらいに、パンクが出てきたんです。そこからニュー・ウェーブになって、ものすごい勢いで新しい音楽がどんどん出てきたんですね。そうすると、それまで好きだったジェームス・テイラーが古くさく思えてきてしまって。そのうちYMOも出てきて、とにかく音楽の流れがものすごく速かった。そんな中で、トーキング・ヘッズがいろんなリズムをミックスしてるのが好きだったり、リズムの面白い音楽に惹かれていったんですね。

ーなるほど。

岡本:そのころはまだレコード屋も多くなくて、レコード・コンサートに通いました。河村さん、藤田さんと、渡辺さんという方が、恵比寿の公民館で毎月開催してたんです。

ー中村とうようさんの本などでも、レコード・コンサートの話が出てきます。当時はよく開催されてたんですか?

岡本:とうようさんもやってたし、昔は多かったですね。レコードが手に入らないから。持ってるレコードを持ち寄って皆でシェアするような感じですね。僕が最初に行ったときは15人ぐらいだったかな。のちに喫茶店でやるようになったころには、2〜30人ぐらい集まってました。土曜日の夕方、4時から6時くらいまでで、終わったらみんなで飲みに行って。そこで 河村(要助)さんや藤田(正)さんと仲良くなって、いろいろ教えてもらいました。

ーそれは楽しそうですね!マニアックな音楽で仲間を見つけようとすると、楽じゃないですからね。

岡本:楽しかったですね!

バンド結成

岡本:大学を出て、ラジオたんぱ(※現・ラジオNIKKEI)っていう放送局に就職して数年経った1987年の12月に、ウィリー・コロンが来日したんです。サルサ・ミュージシャンの来日は、76年のファニア以来 11年ぶりでした。ファニアのときは、ミュージシャンの人数も多いし、たぶんかなり赤字になったので、プロモーターも及び腰だったんですよね。

ーそのときは、どういう編成だったんですか?

岡本:ウィリーが歌とトロンボーン。トロンボーンががもう一人、サックスが1人。他にはキーボードとトランペットをやる人がいましたね。
河村さんは、そのときの公演に大いに刺激を受けてトロンボーンをはじめたんですよ。

ーそれはすごいですね! もうそこそこの年齢でしたよね?

岡本:河村さんは 当時、43歳ですね。すごいでしょ?(笑) それで、一人でやっててもつまんないからバンドやろうよって呼ばれて。僕は当時30歳ぐらいでしたね。河村さんと僕の知り合いに声をかけてメンバーを集めました。佐藤卓っていう、デザイン界ではいまや巨匠になってる人もいましたよ。メンバーに譜面を書ける人がいなかったんで、僕が見よう見まねでアレンジして譜面を書いて。アレンジとは呼べないくらいのものですけどね。

ーバンドはどのくらい続いたんですか?

岡本:3~4年くらいやりました。またやろう、っていうんじゃ絶対集まらないから、毎週練習するって決めて。来れない人は来なくていいからって。最初はボロボロでしたけど、だんだん面白がってくれる人も現れて、結婚式に出たり、しまいにはクロコダイルにも出ました。でも、バンドやってると、いろいろあるじゃないですか。もめごとっていうか(笑)。で、一回解散して、今度はメレンゲのバンドをはじめて、95年くらいまでやりましたね。

ーメレンゲですか!

岡本:メレンゲ・バンドではミニ・アルバムを2枚出したんですよ。

ー精力的にやってたんですね。

岡本:そうですね。毎週練習してましたからね。

ー毎週やるっていうのは、すごいですよ!

岡本:野音(※日比谷野外音楽堂)にも出たんですよ。ウィリー・コロンを呼んだM&Iカンパニーという会社が『カリビアン・カーニバル』っていうラテンのフェスティバルを毎年やってたんです。バブルの時期で、スポンサーに富士通がついて。ルベン・ブラデス、オスカル・デ・レオン、エル・グラン・コンボも来ました。5~6年続いたんじゃないかな。93~4年に、前座で出てみる?って言われて、是非!って。

ーへー!知りませんでした。

ダンス教室の波

ーそのころには、バンド以外でもいろいろ活動をはじめていたんですか?

岡本:93~94年から、ラティーナ(※ラテン音楽専門の月刊誌)に連載をはじめて、途中休みましたけど、ずっと毎月連載してます。

ーDJはどうです?

岡本:90年くらいからですかね。当時はまだクラブ・カルチャーっていうものもなかったし、好きな曲をかけて楽しむ集まりでした。数人からはじまって、だんだん増えていった感じですね。
いまのラテンのイベントって、ダンスがすごいじゃないですか。クルクル回したりして。そういうのはまだありませんでした。

ーそうすると、ダンス教室っていうのはいつごろから出てきたんですか?

岡本:92年に、『マンボ・キングス/わが心のマリア』っていう映画が大ヒットしたんですね。1950年代にキューバからニューヨークに渡ってきた兄弟が、音楽で成功していく話。弟役がアントニオ・バンデラスで、ハリウッド・デビュー作になります。この映画のヒットで、アメリカでマンボ・ブームが起こったんです。
マンボは、1950年代にペレス・プラードが火をつけて、ティト・プエンテ、ティト・ ロドリゲス、マチートなんかがいて、世界的に大ブームになったんですね。

岡本:それがキューバ革命の後、60年代になるとブームは去って、今度はサルサの時代になった。それ以来マンボは古臭い音楽って思われていたのが、40年ぶりに大ブレイクしたんですね。

ーなるほど。マンボで踊るためにダンス教室に通う人が増えたということですか?

岡本:そうです。ただ、ラテン系の人たちは習わなくても踊れるんですね。小さい頃から家で親と一緒に踊ってるから、みんな踊れる。

ー踊ることが、日常なんですね。

岡本:そうそう。でも白人は教わらないとわかんない。それで白人のために、ニューヨークにダンス教室ができはじめた。そうなると、日本から旅行に行った女子が、向こうでダンス・レッスンに行くようになって。それで帰国して、僕らのイベントにもやって来るようになったんですよ。
そこに目をつけた方がいて。もともと大手の芸能プロダクションにいた人なんですが。

ー面白そうな話ですね!

岡本:面白いんだけど、すげーむかつくんだよね(笑)。彼が何をやったかっていうと、自分で団体を立ち上げて、「サルサの正式団体」みたいなことにしたんですよ。

ーなるほど!「日本○○協会」みたいなやつですね。そこが認定するインストラクターがいたりして、一種の資格ビジネス。

岡本:そうそう!そういう入り口から入ってきた人がいっぱいいるから。音楽を聴いて踊ろうっていうのじゃなくて、まずはステップ、まずはレッスン、みたいなことになりましたよね。

「OLのおばさんが踊ってるやつ」

ーいわゆる「 音楽ファン」 とは違うんですね。

岡本:そう。カルチャー・スクール的な。

ーちょっと習い事をして、出会いもあったらいいな、みたいな。

岡本:そうそう。それがすごいマイナスイメージだと思うんだよね。

ーすごいマイナスですよ!ダンス教室文化が、ラテンへの敷居を高くしてると思います。たまにサルサのイベントに行くと、みんなステップで踊ってるんですよね。ステップを知らないと入っていけない。どんなに音楽が良くても、場の雰囲気に違和感を感じてしまうんですね。だから、ラテンのイベントからは足が遠のいてしまいます。家で聴いてるほうがいい。

岡本:昔は、みんな適当に体揺らして踊って、ステップを知ってる人は勝手に踊る、みたいな感じだったんですけどね。
現地では、そんなクルクル回したりとかしないですよ。彼女や気になる相手と来てるから、なるべく密着して話して、あわよくば連れ出そう、っていう感じだから。

ーなるほど(笑)。

岡本:いろんな人にも言うんだけど、まずは音楽を聞いてほしい。サルサの曲って最初は歌からはじまるじゃないですか。キメがあって、コール・アンド・レスポンスがあって、それから踊らせるパートになる。現地だと、みんな最初は歌を聴いてますよ。で、躍らせるパートになったら踊り始める。日本人は、曲がはじまった途端にいきなり前に出て行ってクルクルやりはじめる。

ー音楽が好きで昔からやってきたのが、そういう人たちが出てきて、そっちの方が一般に認知されるっていうのは、 なかなか複雑ですよね。

岡本:イヤですねー。もう10年ぐらい前、ある大学の一般教養のクラスにゲスト講師として呼ばれたことがあるんですよ。ニューヨークのラテン文化について話したんです。30人ぐらいいたかな。サルサ知ってる人?って聞くと、8割ぐらいの学生が手を挙げたんですね。そしたら、「OLのおばさんが踊ってるやつですよね?」って言われて!(笑)

ーなるほどー!たしかに、間違ってはいないけど、そうじゃない、っていう。

岡本:それねー、真っ向から反論できないのが辛かった。

ーウソではないですからね(笑)。

まずは触れること

岡本:でも最近は、ダンスから入って音楽に興味を持つ人も出てきていますね。もともとヒップ・ホップやハウスで踊ってた若い人たちが、ラテンに興味を持つことが増えてるんです。ヒップホップにも、ラテンの要素が入ってるじゃないですか。そこからラテンに興味を持って、それこそ昔のファニアのレコードを探したりしてる。

ーラテンに触れるきっかけがあるんですかね?

岡本:ヒップ・ホップやハウスのDJがラテンの曲をかけて、そのプレイ・リストからオリジナルを知るんじゃないですかね。だから、潜在的なマーケットがあるっていうのはすごく感じます。

ーなるほど。

岡本:いまはビルボードのヒット・チャートの曲にも、ラテンの要素がたくさん入ってきてますしね。たとえばカーディ・Bなんかは、昔のラテンをヒップ・ホップにリメイクしたような曲でヒットを飛ばしてる。NYのドミニカ系とトリニダード系のハーフなので、ラテンのバック・ボーンを持ってるんですね。

岡本:向こうの人達って、ファニアやクラシック・サルサを、普通に聴いてるんですよ。親が聴いてるし、ラジオでもクラシック・サルサをずっと流してるチャンネルがある。そういう環境が日本にはないじゃないですか。

ー僕がアメリカにいた時に驚いたのは、スーパーに入ったら、BGMにアレサ(・フランクリン)やサム・クックとかのクラシック・ソウルがかかってたんですよ。それこそ西友みたいな普通のスーパーで。これはかなわないなと思いましたね。
日本でスーパーに入っても、ヒット曲をダサいインストに作り直したやつとかが流れてる。せめて日本の古い音楽がかかってれば、なにかしら血肉になるんだけれども。

岡本:そうそう。向こうの人って、「クラシック」を日常で聴いてるんですよね。そういうものに触れてるっていうことが大事だと思います。

浅くてもいい

ー聴く機会って大事ですよね。出会うきっかけさえあれば、そこから広がっていくかもしれない。僕はニューオリンズの音楽が好きで現地に留学もしたんですけど、そもそも「ニューオーリンズ」っていうキイワードを意識したのって、細野晴臣のトロピカル三部作なんです。いわゆる「ニューオリンズ音楽」から入ったわけじゃない。

ーだから、オブ・トロピークみたいにラテンを気軽にやることにも、意味があるかなと思ってるんです。普段ラテンを聞かない人が、少しでもエッセンスに触れるきっかけになったらいいなって。僕が細野晴臣を聞いてニューオリンズに目覚めたように。
ラテンをやるってなると、みんな急に真面目になっちゃうんですよね。ロック・バンドでもその時だけラテンのパーカッショニストを呼んできたりして。でも、詳しくない人が自分なりの解釈でやることで、逆にエッセンスが伝わるっていうことも、あるんじゃないかなーって。

岡本:たしかに、それはあると思いますよ。

ー僕の場合、ラテンを聴きはじめたのだって、ロックの周辺の音楽の一つとしてですからね。ロックを聴いてなければ、ラテンも聴いてなかったかもしれない。

岡本:それでいいと思いますよ。ラテンの持つ雰囲気やエッセンスみたいなものが多くの人にアピールしたからこそ、世界中に広がったわけですから。それこそ、エキゾチカもそうじゃないですか。

ーたしかに。あらためてエキゾチカ・ミュージックを聴いてみると、思ったよりラテンのマナーを研究してる。でも、浅い深いでいったら浅いと思うんですよ。ラテンと思って聴くことはない。逆に、浅くて気軽に聴けるから一般に受け入れられた、っていうのもあるのかな、と。

岡本:そうですね。あれだけヒットしたっていうのはすごい。それがきっかけで深い所に行く人がいてもいいし、また別の所に行く人がいてもいい。

軽くてもいい

ーエキゾチカっていうとマーチン・デニーとかになるけども、べつにマーチン・デニーのことがものすごく好きなわけじゃないんです。ラテンをぼんやりと意識しつつ変なことをやりたいっていうキイワードとして、エキゾチカって言ってて。「ラテン・バンド」なんて言っちゃったら、その時点で気負ってしまう。それは、「ニューオリンズ・バンド」でも「ブルース・バンド」でも同じだと思います。特定の音楽を追求する、っていうステイトメントになるわけですから。

岡本:いんじゃないですか?言ったもん勝ちで。

ーいやいや言えないですよ!うるさい人いっぱいますから。

岡本:まあね(笑)。

ーエキゾチカって言ってると、逆にハード・コアな人は近づいて来ないと思うんですよ(笑)。

岡本:たしかに便利な言葉かもしれない。

ーエキゾチカ自体が、イージー・リスニングみたいなものだから。マーチン・デニーをまじめにコピーしたって、面白いものにはならないと思いますしね。エキゾチカって、気軽にいろんなジャンルの要素をごちゃ混ぜにできる無法地帯のようなフォーマットだと思うんです。その、いろんなジャンルへの興味の一環として、ラテンがあるんですよね。

岡本:なるほど。

ー僕みたいな軽い人はどうですか?

岡本:全然いいじゃないですか。そういうのがいいじゃないですか。

ーじゃあ、誰かラテンの怖い人に怒られたら、岡本郁生の許可を得てるんだぞ!って言っちゃいますよ?

岡本:ぜんぜんいいですよ!

 

岡本郁生(おかもと・いくお)

1958年生まれ。高校生だった70年代半ば、サルサに衝撃を受けラテン生活に突入。大学在学中はジャズ研究会でベースを担当。現在、トロピカル音楽からポップ、ジャズ、歌謡曲まで、ラテン文化が関わることがら全般をカバー。さまざまな音楽番組を手がけるほか、アルバム解説、雑誌連載、イベント主催など幅広く活動中。ラテン音楽Webマガジン「eLPop」を仲間10人で主宰。

【著書】
「アメリカのヒスパニック=ラティーノ社会を知るための55章」(明石書店:共著)
「中南米の音楽―歌・踊り・祝宴を生きる人々」(東京堂出版:共著)
「米国ラテン音楽ディスク・ガイド50’s-80’s LATIN DANCE MANIA」(リットーミュージック:監修&編)
「みんなGSが好きだった」(扶桑社)(北島一平名義:共著)
「THE DIG presents ラテン・ロック featuring サンタナ」(共著)ほか

You may also like