Bandcamp Daily の “FEATURES” で of Tropique が取り上げられました。クラリネット近藤のインタビューをベースにした記事で、とても素晴らしい内容にまとまっています!
https://daily.bandcamp.com/features/of-tropique-buster-goes-west-interview

Bandcamp Daily の “FEATURES” で of Tropique が取り上げられました。クラリネット近藤のインタビューをベースにした記事で、とても素晴らしい内容にまとまっています!
https://daily.bandcamp.com/features/of-tropique-buster-goes-west-interview
of Tropique & さえずりな夜(山村誠一&山田裕)
開場 19時 / 開演 20時
前売り3000円 / 当日 3300円
2/3に米Electric Cowbell Records よりフルアルバムがLPでリリースされます。ゲストにアルゼンチンの人気ミュージシャンRolando Brunoと民謡クルセイダースの小林むつみを迎えた自信作です。オタニじゅんの手による美麗ジャケットもLPサイズで堪能できます。ぜひご期待ください。
2/10(木)19:30より、FMまつもと「Hickory Sound Excursion」で、2018年にオタニじゅん氏と作ったアートブック『La Palma』が紹介されます。
パーソナリティは洒脱なデザインWEBショップrovakk musikk の久納ヒサシさん。
クラリネットの近藤とオタニ氏のコメントも放送されますのでお楽しみに。
1月22日より1週間『片袖の魚+東海林毅ショートフィルム選』大音量上映が、池袋シネマ・ロサで開催されます。
上映作品の『帰り道』は、of Tropique 名義ではじめて映像に音をつけた記念すべき1本です。書き下ろした“Three Gringos”はその後のライブでも好評でたびたび演奏していますが、映画バージョンのアレンジも気に入っています。ぜひ大音量でお楽しみください。
その他の作品も振り切れてて見応えがあります。監督の最新作『片袖の魚』はトランスジェンダー当事者をキャスティングした映画ということでかなり話題になっていたので、気になっていた方も多いのでは。
一週間限定ですのでお見逃しなく!
【上映時間】
1/22(土)18:00
1/23(日)〜27(木)18:30
1/28(金) 18:00
【上映後舞台挨拶】
1/22 イシヅカユウ 広畑りか 田中博士 東海林毅(監督)
1/28 イシヅカユウ 黒住尚生 眼鏡太郎
シネマ・ロサ http://www.cinemarosa.net/index.htm
本日、ワシントンD.C.を拠点とするElectric Cowbell Records より7inch シングルレコードが発売されました。国内での流通は100枚のみです。
楽曲自体は各ストリーミングサービスでも聴けますが、オタニじゅん氏の秀逸な盤面デザインに加え、レコードの音質も素晴らしい仕上がりですので、ぜひお買い求めください。
WEBでの取り扱いショップは、ディスクユニオン、タワーレコード、Jet Set、パライソレコード、ピカント、Eat Records、STEREO RECORDSです。
冨永昌敬監督の短編映画『四つ目の眼』の音楽を担当しました。神奈川県大和市を舞台にしたオムニバス “MADE IN YAMATO” の中の1本です。
第22回東京フィルメックスで、10月30日の13:00よりお披露目上映されます。
10月29日リリースの7inchレコードのB面曲 “Zoro” のMVを公開しました!
監督は冨永昌敬、撮影は2019年に都内各所~横浜~相模湖で行いました。
シュールで無国籍感あふれる映像を、ぜひご覧ください!
米Electric Cowbell Records より、2曲入り7inchレコードが10/29に リリース決定!現在レーベルのBandcampページで先行予約中です。
国内での取り扱いなど詳細はまたお知らせいたします。ご期待ください!
6/21(月)24:55より、音楽を担当したフジTVドラマ『彼女のウラ世界』の地上波放送が開始されます。2話目からは、毎週月曜24:25からの放送です。この機会に是非ご覧ください!
出演者
三浦貴大 剛力彩芽
西田尚美 杉山ひこひこ ゆうたろう 栁俊太郎 霧島れいか 藤田朋子 他
スタッフ
原作:「彼女のウラ世界」(東京カレンダー)女里山桃花
脚本:錦織伊代 阿久津朋子
監督:冨永昌敬
音楽:of Tropique
プロデュース:鹿内植(フジテレビ)
プロデューサー:佃敏史(共同テレビジョン)
特別協力:東京カレンダー/ひかりTV
制作協力:共同テレビジョン
制作著作:フジテレビジョン
今藤洋子チャンネルで毎週金曜日に配信されるショートムービー『ヨコローグ』の音楽を担当しました!
冨永昌敬(監督) × 松本哲也(脚本)のコンビによる全8話。どれも2〜3分の短編なので、お気軽にご覧ください!
本編はコチラから→ 今藤洋子チャンネル
出演者
今藤洋子、松本哲也、永島克、宮城由紀乃
スタッフ
脚本:松本哲也
監督:冨永昌敬
音楽:of Tropique
撮影:市来聖史
録音:光地拓郎
ヘアメイク:大岸美沙希
助監督:平井諒
協力:Shiny Owl 表参道
フジTV系ドラマ『彼女のウラ世界』の音楽を担当しました!
3/22より、まずはフジテレビTWO、ひかりTVにて放映開始です!
出演者
三浦貴大 剛力彩芽
西田尚美 杉山ひこひこ ゆうたろう 栁俊太郎 霧島れいか 藤田朋子 他
スタッフ
原作:「彼女のウラ世界」(東京カレンダー)女里山桃花
脚本:錦織伊代 阿久津朋子
監督:冨永昌敬
音楽:of Tropique
プロデュース:鹿内植(フジテレビ)
プロデューサー:佃敏史(共同テレビジョン)
特別協力:東京カレンダー/ひかりTV
制作協力:共同テレビジョン
制作著作:フジテレビジョン
このインタビューは、2020年1月に行われました。
彼女のバンドMumbia Y Sus Candelosos(ムンビア・イ・スス・カンデローソス)は最初のシングルを発売したばかりで、4月にはゲスト参加してもらったof Tropique の新曲リリースが控えていました。
それから、コロナが来ました。
of Tropique のリリース元はアメリカのレーベルでした。あちらの被害は日本の比ではなく、発売延期となり、今後のメドはいまだに立ちません。
リリースに合わせて公開するはずだったインタビューはどうしようと悩んで数ヶ月、なんと!Mumbia が2枚目のシングルを発売したそうじゃないですか!しかも、コロンビアの国営ラジオ局からもオンエアの依頼が来ているらしい。よし、この波に乗るしかない!
というわけで公開することにした幻のインタビュー、Mumbia Y Sus Candelososのレコードと合わせてお楽しみください!
(※以下の内容は、2020年1月当時のものです。)
オブ・トロピークに欠かせないパーカッション奏者、小林ムツミ。
世界中からライブのオファーが絶えない人気バンド 民謡クルセイダーズのメンバーであり、自身の率いるMUMBIA Y SUS CANDELOSOS(ムンビア・イ・スス・カンデローソス)でも7inchをリリースと、勢いが止まらない。
彼女は、「普通」のパーカッション奏者とはひと味もふた味も違う。MUMBIAのライブでは、自らリズム・トラックを打ち込み、ショルダー・キーボードを嬉々として弾きまくる。
オブ・トロピークのレコーディングでも、音楽的とは言い難い要望にも柔軟に対応し、頼まないうちから鳥笛を吹きだす。おかしい。いったい彼女のルーツはどこにあるのか。
MUMBIA Y SUS CANDELOSOSとして初の7inchが好評の中、渋谷宇田川町、音楽好きが集う虎子食堂にて、閉店時間まで話は尽きなかった。
[取材&写真:近藤哲平]
小林:生まれは北海道で、東京の立川で育ちました。小学生のときは6年間ピアノを習ってたんですよ。学校の図書館で民族楽器の図鑑を見たり、テレビの「世界の少数民族」みたいな番組を見るのが好きな子でした。
ー変わった子供ですね(笑)。音楽との出会いはどんなでした?
小林:姉がビートルズの熱狂的なファンだったんです。中学のとき、姉がかけてた曲からジョージ(ジョージ・ハリスン。ビートルズのギタリスト。)の弾くシタール(インド音楽で使われる弦楽器)が聞こえてきて、なんだこの音は!って思って。それからインド音楽に興味が出て、高校になってタブラ(インド音楽で使われる打楽器)買っちゃいました。教則ビデオ見たけどよくわかんなくてすぐ挫折しましたけどね。
ールーツはジョージ・ハリスンですか!
小林:中高あたりは、近くの大きい図書館で、ボサノバとかのブラジルものや、アフロやレゲエやジャズ、「世界の民族楽器シリーズ」とか、浅く広く片っ端から借りて聴きまくりました。
パンク、ハードコアも好きでしたね。ハードコアバンドをやりたくてエレキギターに挑戦するもメンバーが見つからなくって、バイト先のハードロック好きのお兄さんからなぜかイングヴェイ・マルムスティーンをやれと言われてスコア(譜面)をもらったけど、難しすぎて挫折しました。
小林:その頃はジャムバンド(即興演奏中心のロックバンド)が人気で、Phish(=フィッシュ)やMedeski Martin & Woodのライブとか見に行きましたね。
小林:レイヴ(音楽に合わせて踊る野外イベント。山中などでオールナイトで開催されることも多い。)にもハマって、そこからエレクトロな音楽にも興味を持ちました。いま思えば好奇心が爆発してましたね。ネパール人やニュージーランド人や、年齢も国籍も関係なく友達がたくさんできました。
ー高校でレイヴですか!山とか行ってたんですか?
小林:行ってましたねー(笑)。でも深夜イベントは未成年が入れないっていうことを知らなくて、当時新宿にあったリキッドルームで、あなた何歳ですか?生年月日と干支を言ってください、って聞かれて答えられずに悲しく帰った思い出があります。
小林:高校1〜2年のころからディジュリドゥ(オーストラリアの先住民アボリジニの吹奏楽器。息継ぎをせず循環呼吸で演奏する。)を吹き始めて、帰り道に公園でひとりで循環呼吸の練習してました。月イチで横須賀の公園で開催されているディジュリドゥ奏者の集いとかにも通ってて、「ディジュリドゥ女子高生」って呼ばれてました。たぶん今でもできますよ。まだクンビアでディジュリドゥ吹いた人はいないだろうから、いつかやってみようかな(笑)。
ーどんどんマニアックな方向に行きますね。
小林:その集まりで知り合った太鼓叩きの友達がセッションしてるところに遊びに行って横で教えてもらったりしてるうちに、「太鼓好きかも!」って思うようになって。で、ボンゴを買って公園で叩いてたら、たまたま通った人に「バンドやらない?」って誘われたんです。
小林:それが高校二年生くらいのときです。mossっていう、ダブとジャズとドラムンベースが混ざったような、音は深めな感じのインスト・ジャムバンドでした。
ー偶然声かけられたにしては、好きなシーンで活動をはじめたんですね。
小林:そうですね。ちなみにアルバムにゲスト参加しているトランペットはDouble Famousの坂口さん (坂口修一郎。「大事なのは、匂いを嗅ぐこと」参照) で、歌っているのはDRY&HEAVYのAo Inoueさんです。そして、なんと民謡クルセイダーズで今一緒にやっているMoeさんもメンバーだったんです。
ーえ!高校時代からの付き合いなんですか?
小林:うん、相当長いでしょ?mossは、2003年に新宿LOFTのレーベルからアルバム出して、リリースパーティをもって解散しました。なんでだったかよく覚えていないんですけど。
小林:そのころは、HBっていうインストのガールズバンドもやってました。初期の編成は私とチェロ、エレクトロ・マリンバ、ホルン、ドラム、ベース、ギターでした。
ーまたすごい編成ですね。その人数で女性だけっていうのも珍しい。そういうコンセプトでメンバー集めたんですか?
小林:はい。ドラムのMakiちゃん(※Maki Garcia。現在はLOVE ME TENDER で活動。)と、ギャルバンやろう!って(笑)。曲はポリリズミック(ポリリズム=複合リズム)に組み立てていてミニマルで、ループ(短いパターンの反復)で盛り上げていく、みたいなバンドで。2005年にフジロックに出て、その後紆余曲折してドラム、ベース、パーカッションのリズム隊のみのトリオになってP-VINEからアルバム出しました。
ーだいぶ減りましたね。
小林:まあ、女性は仕事がいろいろありますからね(笑)。
3人になってからは、何せメロディをやる人がいないからリズムとベースのからくりだけで曲を作ってて、リハではポリリズムを延々やる、みたいな。リズムについて考えるすごい良い時間でしたね。パーカッションもいろいろ増えて、グロッケンも使ってました。
小林:当時は他にも、即興演奏のシーンに出入りしたり音楽劇で演奏したりラテンビッグバンドに参加してました。
ーラテンビッグバンド!それまでもラテンや南米の音楽ってやってたんですか?
小林:全くやってませんでしたね。
ーそこからクンビアやるようになったきっかけは何だったんですか?
小林:その頃に参加してたバンドでクンビアを取り入れた曲をやったことがあって、なんかノリが自分の波長と合ってるなーって思ったんですよね。もう全曲クンビアでもいいんじゃないか、ってくらい(笑)。
そこからクンビアのバンドやってみたいなぁってうっすら思い始めて。日本でクンビアって単語をよく聞くようになったのは、デジタルクンビアが広まったあたりだと思うんですけど、私もZZK(アルゼンチンのレコードレーベル。デジタルクンビアの流行を作った。)のアーティストは片っ端から聴いてました。Dick El Demasiadoが来日した時、私のやっていたユニットもイベントで一緒になったこともあるんですよ。
ーそれはうらやましい!でもデジタルクンビアは打ち込みだし、バンドとはまた違いますよね。
小林:そうですね。私の場合、デジタルにしてもバンドにしても、クンビアのビート感が大好きなんです。それまでどちらかというと変拍子やポリリズムが好きだったんで、逆にシンプルな4拍子の奥ゆかしさに感動して。私の周りの音楽シーンでは正確でバカテクなリズムを美としがちだったんで、その反動が大きかったです。
ーなるほど。日本のインストバンドは、テクニック志向が多いですよね。
小林:私もそういうところにいたから、クンビアの訛りを聴いて、もう最高だ!って思っちゃって。それで世界のありとあらゆるスタイルのクンビアとその周辺の音楽を聴いてるうちに、Meridian Brothers(メリディアン・ブラザーズ)やFrente Cumbiero(フレンテ・クンビエロ)や、クンビアを取り入れた実験的な音楽をやっている人達の存在を知ったんです。
小林:世界には自分にとってドツボなシーンがあるんだなぁってすごく嬉しくて、そのままどっぷりハマッてしまいました。それで、日本人である自分がクンビアをやったらどんなものが生まれるだろうと思って2013〜14年くらいから始めたのが、ムンビア(・イ・スス・カンデローソス)なんです。
ーバンド名の Mumbia Y Sus Candelososは、どういう意味なんですか?
小林:Mumbiaは「ムーちゃんのCUMBIA」で、スペイン語で「ムーちゃんのクンビアと炎を宿すものたち」みたいな意味です。最初は、吉祥寺BAOBABの(店長の)YOSUKEくんがつけてくれた「Banda de la Mumbia(バンダ・デ・ラ・ムンビア)」っていう名前でやってたんですよ。(レコードを)リリースするにあたってちょっと変えてみようと思ってたら、ムンビアのイラストを書いてくれたマテオ(Mateo Rivano。コロンビアのアーティスト。)が「Mumbia Y Sus Candelosos」はどうかって提案してくれて、めっちゃクンビア・バンドっぽい!よしそれでいこう!と。
ーなるほど。最初はメンバーも違ったんですよね?
小林:はい。イベントでのセッションからはじめたんだけど、まわりにクンビアやりたい人がいるわけじゃないし、本当にゼロからのスタートで。最初は人手が足りなくて、自分でシンセやピアニカ吹いたりしてました。私、ティンバレス、ベース、コンガの編成から始まって、いろんなプレイヤーに協力してもらって試行錯誤しましたね。メンバーもほとんどクンビアを知らないままやらされているわけで、どうしてもジャズっぽくなっちゃったりして、でもそれもまた面白くて。
小林:あるとき、自分で打ち込んだクンビアのビートのサンプリングをリハーサルに持っていってセッションしてみたら、みんな「いいじゃん!」って言ってくれて、そこからサンプリングを使い始めました。
ーいまは打ち込みを基本に曲を作ってるんですか?
小林:リフからだったりベースラインからだったり曲によってまちまちですが、まず打ち込みをつくってリハでメンバーといろいろ構成を試す、っていう感じですね。
あと、いま愛用している赤いショルキー(ショルダーキーボード)は、夢でお告げがあって寝ぼけたままネットでポチったんですが、とても人なつこい音で気に入ってて、曲を作る時に力を貸してくれます。FM音源最高(キーボードの発音方式。特徴的な音色で、80年代に多く使われた)!
ー最初から管楽器も入れようと思ってたんですか?
小林:思ってなかったですね。ガイタ(クンビアで使われる管楽器)の入ったコロンビアの音源を聴いていたら、なぜか藤枝さん(藤枝伸介。サックス奏者。)のフルートを思い出したんです。藤枝さんのプリミティブな一面がクンビアに合うんじゃないかと思って誘いました。
小林:トランペットの梅ちゃん(梅澤伸之)は「クンビア好きなんだ、僕もやりたい」って言ってくれたうれしいメンバーです。マーチングでアメリカに留学してたことがあるそうです。
アコーディオンの梅野絵理ちゃんは一番古い付き合いで気心知れた仲間です。普段はピアノも弾いてます。
ラップのHYDROくんは近所(国立)の飲み仲間で、フィーリングがクンビアに合う気がしたんですよね。国立はレゲエミュージシャンが多いですけど、実はラッパーもたくさん集う街なんです。
ベースの久保さん(久保祐一朗)は、夢に出てきたんですよ(笑)。決まってたライブにお願いしてたベースの子が来れなくなっちゃったときがあって、どうしようって思ってとりあえずやけ酒して帰って寝たら、夢に久保さんが出てきて「なんか困ったことあったら声かけてください」って言われて目が覚めたんです。それで誘ってみたら「声かけてくれてありがとう!」って返事が来て、正夢になりました(笑)。実は一回しか会ったことがなかったんですけど。
ーそれはすごい!久保さんはクンビアやってたんですか?
小林:プレイは初じゃないかと思うけど、いろんな音源を聴いて研究してくれました。それで、ライブを1~2回やったあとに「オレ録音できるからレコーディングやってみようよ!」って言ってくれて、最初はデモになればと軽い気持ちで録りはじめたんです。2018年の夏で、ものすごい猛暑でした。
小林:レコーディング中に、ヒデさん(Hide Morimoto)がOKRA印っていう日本のレーベルを立ち上げて、しかも一枚目はフレンテ・クンビエロをリリースするっていう話を聞いたんです。コロンビアのバンドが日本のレーベルから出すことに衝撃を受けたと同時に「2枚目は私だ!」と思ってヒデさんに話して、こうしてOKRA印からリリースされることになりました。
ー今回の7インチ、いいですよね。バンドというより、打ち込みのクラブ寄りのサウンドなのに驚きました。
小林:生楽器に打ち込みってちょっと毛嫌いされるじゃないですか。私もどっちかというとそう思ってたんだけど、南米のバンドとか聴くと、みんな打ち込みとか自然にやってるんですよね。別に「融合」でもなんでもなくって、ただ単に混ざってるだけ、っていう。あ、アリなんだな、って。
ームンビアのライブを見たときは、打ち込み感はなくてバンドっぽい印象が強かったんで、いい意味で裏切られました。
小林:やってることは音源とだいたい同じなんですけどね。
ーライブだと各楽器のソロもけっこうあるし、自由な雰囲気ですからね。むーちゃんが、パーカッションだけじゃなくってサンプラー操作したりショルキー弾いたりしてて、面白そうな人だなって印象が強かったです。それでオブトロのレコーディングに誘ったら、やっぱり面白かった(笑)。
小林:哲平さんのレコーディングの第一声が、「下手そうに叩いてください」で、これは気が合いそうだ、って思いました(笑)。
ーそんなこと言いましたっけ?
小林:はい。真剣な顔で、けっこう熱く。
ー民クル(民謡クルセイダース)はどういう経緯で加入したんですか?
小林:ムンビアで吉祥寺のBAOBABに出たとき、当時民クルのベーシストだった水野さんがDJやってたんです。初対面だったんですけど、ボンゴいいねー!って言ってくれて。それから数日後に「今日スタジオでセッションするから遊びにきませんか」って連絡がきたんですよ。出先で楽器も持ってなかったんですけど、スタジオに楽器あるから大丈夫って。で、ガチャってドア開けたらセッションじゃなくてガチのバンドのリハーサル中で、それが民クルだったっていう(笑)。しかも前に一緒にバンドやってたMoeさんがいてビックリ。
ちょうどバンドの立て直し時期で、水野さんはいろんな人を誘ってリハーサルしていたみたいです。最初はサポートのつもりだったのが、すぐレコーディングが始まって、いつのまにかメンバーになってそのまま今に至ります。
ーすごい展開!(笑)
民クルいま勢いありますよね。海外公演も多いし。
小林:メンバー自体は全く勢い無いんですけどね(笑)。流れにまかせてこうなっちゃったところがあるから、まわりの反応がすごくて驚いています。全てはタイミングですね。
ー民クルに期待してる人は多いと思いますよ。海外のフェスに出てるバンドって意外といるじゃないですか。それこそコーチェラとかグラストンベリーとかも。でも、国内で認知されるかは別の話だし、世界を舞台に活動してるバンドも少ない。
小林:それも民謡の持つパワーのおかげなんでしょうね!
ー民クルはいろんな国に行ってますけど、クンビアの本場コロンビアはどうでした?日本から行く人は多くなさそうですよね。
小林:めちゃくちゃ刺激的で楽しかったです!日本人は、日本料理屋と日本大使館以外ではぜんぜん見かけなくて、私たちが歩いているだけでもの珍しそうに見られました。でも話しかけるとみんなニッコリ笑顔で話してくれて、嫌な感じはなかったです。やっぱりコロンビアといえば、映画なんかでも麻薬戦争、マフィア、っていうイメージが強いけど、みんな優しくてあったかくて、ぜんぜん違う一面がたくさんありましたね。
ーずっとボゴタ(コロンビアの首都)にいたんですか?
小林:ずっとボゴタで、移動も入れて2週間くらいだったかな。演奏2回とワークショップ1回と、フレンテ・クンビエロとのレコーディングが2日間。あとは日本大使館にお食事会に呼ばれてコロンビアの伝統料理を堪能させてもらったり、大学を見学したり。
個人的には、タンボール・アレグレ(南米の打楽器)を買いに職人の家に行ったり、ペドロ(Pedro Ojeda。フレンテ・クンビエロのドラマー。)の家でパーカッションのワークショップをやってもらったりしました。コロンビア音楽のリズムを学びたいって言ったら、ペドロが同世代くらいのパーカッショニストを呼んでくれて。コロンビアの太鼓CAJAのリズムが、ボンゴみたいな奏法もあって刺激的でしたね。
ーへー、楽しそう!
―大学でのワークショップって、どんな感じなんですか?
小林:授業の一環で、ちょっとライブをやって、そのあと質問コーナーがありました。大学生が挙手してどんどん質問してくるんですけど、やっぱり民謡についてが多かったですね。印象的だったのは、民クルのリーダーが「民謡は大衆の音楽から離れてしまっていてそれをみんなに戻したい」って話したときに、マリオ(Mario Galeano Toro。フレンテ・クンビエロのリーダー。)が、俺たちにとってのクンビアと同じだ、って言って。
ー一般の人はあんまりクンビア聞いてないんですか?
小林:クンビアってコロンビア発祥だけど、古き良き音楽というか、若者にはあまり聴かれてないんじゃないですかね。それこそ私たちにとっての民謡みたいな感じで。若者の間ではレゲトンなんかが人気なイメージがあります。だから、民クルとフレンテ・クンビエロって、共通するところがあって。
ーなるほど。
小林:あと、コロンビアでの個人的ビッグイベントは、ムンビアのイラストを描いてくれたマテオに実際に会えたことです。民クルのライブを観に来てくれて、会えたときは本当に嬉しかったですね。そのあと家に遊びに行って、作品を見せてもらったり昔のクンビアのレコードをたくさんかけてもらったりしました。彼はレコードコレクターで、毎週ポータブル・レコードプレイヤーを持参してフリマにに行ってディグりまくっているそうです(笑)。(※ディグる=探す、の意味)
ー個人的に、ボゴタの音楽シーンにすごい興味あるんですよ。フレンテやメリディアンの周辺って、複数のバンドでメンバーが重複してるじゃないですか。ミュージシャン達が行き来して、ひとつのシーンみたいなものを作ってるのかなーって想像します。
小林:うん、そうかも。いい意味で、小さくて熱いシーンというか。やっぱりフレンテ・クンビエロとメリディアン・ブラザーズとRomperayo(ロンペラージョ)。あの人たちみんな昔からの仲間なんですよね。コロンビアのアンダーグラウンド・シーンを世界に発信して、それが広まってどんどん大きな輪になってきてる。
ー小さくて熱いシーンって、いいですね。実際、それが日本にも届いてバンドはじめた人がここにもいるわけだし。理想的だと思います。
小林:そうですね。ムンビアもちょっとずつ広がりつつあります。手探りで真っ暗闇だったのが、世界の人の顔が見えるようになってきて。やっぱり世界をつなげるって意味ではSNSの力はすごいです。南米の人たちは特に、知らない人でもSNSでフレンドリーに話しかけてくるんですよね。英語とスペイン語を勉強しないと(笑)。
―いいですね!
クンビアに限らず古い音楽に興味を持ったときって、最初はどれ聴いたらいいかわからないじゃないですか。どの曲も似てて同じに聴こえるし。そんな中で、オリジナリティのあるバンドの存在は大きいと思うんですよ。日本でも、民クルやムンビアみたいに、昔の音を再現するだけじゃないバンドが増えてシーンができたらいいですよね。その方が、いろんな人に届くと思います。期待してますよ!
小林:ありがとうございます。でもやりたいことやってるだけだから、何も責任とれませんけどね!(笑)
MUUPYの愛称で親しまれる打楽器奏者。ソロプロジェクトとしてクンビアバンド「Mumbia Y Sus Candelosos」を結成し、オリジナルの楽曲に多方面で活躍するミュージシャン、シンガー、ラッパーを迎えて陽気なセッションを展開している。2020年1月にOKRA JIRUSHIより1枚目の7インチシングルをリリース、2020年9月1日に2枚目の10インチシングルをリリース。また現在はアフロ・ラテンミュージックをベースに日本の民謡をのせたバンド「民謡クルセイダーズ」のメンバーとして世界各地で演奏している。2017年12月にP-VINE RECORDSより1st album「MINYO IN THE TOWN」をリリース。2020年9月2日にはコロンビアのバンドFrente Cumbieroと民謡クルセイダーズのコラボレーション作品を「Minyo Cumbiero」としてリリースし話題となる。その他クラブミュージック、シンガーのサポート、ダンスや音楽劇での演奏、即興演奏、レコーディングなど、幅広いフィールドで活動中。
新曲 “Woooo” のMVを作った東海林毅は、僕(近藤:of Tropiqueクラリネット担当)の旧友です。出会ったときは、お互いまだハタチ前後でした。僕は映像をやっていて、彼はまだ学生で、撮影か何かを一緒にやったのかよく覚えてないけれど、近くにいたのは数年の間。それから僕は音楽を始め、お互いに会うこともなくなりました。昨年、MVの映像合成について相談しようと連絡を取ったのが、約20年ぶりです。
そして、東海林がMVを作り、彼の短編『帰り道』に僕らが音楽を付けました。そんなにも古い友達とまた一緒にやれるなんて、心から、とても嬉しい。けど、20年です。あらためてインタビューという形で、東海林のこれまでの話を聞きました。距離が近いからこそ話は深くなり、1万字を超えるボリュームに。四ツ谷の名物アジア料理店「稲草園」での、友人同士のざっくばらんな会話の記録です。
近藤:東海林って、生まれどこだっけ?
東海林:金沢。武蔵美に入るまでずっと向こうにいた。
最初は、絵を描いてたんだよね。小学校のとき絵画教室に通って水彩と油をやってた。
近藤:そうなんだ!小学生で油絵やってたの?
東海林:そう、小6までね。中学に入ってからは、ちょっと萌えっぽいオタクっぽいイラストを描くようになって。オタク文化が百花繚乱だったんだよ。でも、宮﨑勤の事件(※当時26歳だった宮崎勤による連続少女誘拐殺人事件。宮崎の部屋から大量のアニメ雑誌やビデオが発見されたことで、「オタク」に対するネガティブなイメージが広まった。)があったりしてオタクが叩かれてた時代だし、人に知られてはいけない趣味だと思ってたね。
近藤:そうだよね。まだオタクって、いじめとまではいかないけど・・・。
東海林:うん、まだぜんぜん認知されてなくて、気持ち悪がられる人種だったよね。だから人知れず描いてた。
近藤:映画は?俺らの小学校の頃って、スピルバーグが全盛だったじゃん。あとシュワルツェネッガーとスタローン。
東海林:そうだね。僕は人生でいちばん繰り返し見てる映画はたぶん『コマンドー』だと思う。
近藤:マジで?俺、シュワルツネッガーむちゃくちゃ好きだったんだよ!『ツインズ』も劇場に観に行ったし、テレビの 「洋画劇場」でアクションものはぜんぶ見てた。昔は週4日は何かしらやってたよね。
(※当時の東京圏では、木曜〜日曜の21時に、各局ごとに映画番組が放送されていた。『木曜洋画劇場』解説=木村奈保子、『金曜ロードショー』解説=水野晴郎、『ゴールデン洋画劇場』解説=高嶋忠雄、『日曜洋画劇場』解説=淀川長治)
東海林:いや、うちらのとこってチャンネルが少なくてフジ系とTBS系だけだから、高嶋忠雄のゴールデン洋画劇場しかなかったんだよ。水野晴郎のやつが僕が高校のときに映るようになって、淀川長治を見たのは上京してからだから。
近藤:へー、そうなんだ!まあでも中学くらいになると、深夜にやってるのも見るようになるじゃん。俺はとりあえず全部ビデオに録って片っ端から見てて、その中に、ウディ・アレンの『私の中のもうひとりの私』があったんだよね。それまで見てたハリウッドものと全然違って衝撃だった。暖色系のあったかい色味で、画面の質感自体からして違う。音楽も、ウディ・アレンは古いジャズを使うじゃん。あの映画はサティ(※エリック・サティ。フランス印象主義の作曲家。)使ってるんだけど、室内楽的なしっとりした感じで、ハリウッドのオーケストレーションの派手さとは違う。とにかく全部のテイストが、それまで見てた映画とまったく別物だったんだよね。
東海林:最初に衝撃を受けた映画ってあるよね。僕はジュネ&キャロの『デリカテッセン』を見て、ああこんな映画があるんだ!って思った。
東海林:『EX(エックス)テレビ』っていう深夜番組で取り上げられてて、変な映画!って思ったんだよね。金沢って、単館系の映画は根本的にやってないんだけど、金沢大学の映研が、ときどき東京から単館系のフィルムを借りてきて、映画館で上映会をやってたのね。高校のときかな、そこで『デリカテッセン』を上映するって知って、見に行ったんだよ。そのときのチケットいまだに持ってるよ。手作りで印刷したやつ。そこからようやくヨーロッパ映画に目が向いたかな。
近藤:ヨーロッパ映画にいつ出会うか、ってあるよね。最初はだいたいハリウッド映画からじゃん。
東海林:そうだね、ハリウッド映画しか、地方ではやってないしね。
近藤:それだと、ヨーロッパ映画に興味持っても見れないじゃん。どうすんの?
東海林:レンタルビデオ屋に、ちょっとマニアックなのも置いてあったからね。少ないけど。あとはまだ深夜映画がそういうのを拾ってくれてたじゃない?深夜映画って、こっちが見ようと思ってないのに、強制的に出会わされちゃう感じがある。高校時代くらいから深夜映画がすごい好きになったね。
近藤:高校時代は、映画の他は何やってたの?絵?
東海林:うん。人知れずこっそりね(笑)。スポーツに興味がなくって部活も入ってなかったし。でも家で筋トレはやってたんだよ。もともと中学は陸上部で砲丸投げやってたし、ガチで体鍛えてたから。デヴィッド・リンチの『ブルー・ベルベット』や『ツイン・ピークス』とかを見ながら、1日100回ぐらい腕立てとか腹筋とかやってたよ。
近藤:え!なんで?別に見なくていいじゃん。
東海林:いやなんとなくやっぱね、つけながら。
近藤:おかしいでしょ!筋トレに合わないじゃん!『ロッキー』とかならまだわかるけど。
東海林:ほら、スポーツに興味がないから。ボクシングはスポーツだから興味ないんだよ。
近藤:『ブルー・ベルベット』流して筋トレやってるのって、だいぶおかしいよ。それこそデヴィッド・リンチの映画に出てきそうじゃん(笑)。
しかし『デリカテッセン』とデヴィッド・リンチか。マニアックだね。他にはどんなのが好きだったの?
東海林:あとは『ブレードランナー』。もともとSFが好きで、フィリッップ・K・ディックの小説はほとんど読んでたんだ。中学のときにフィリッップ・K・ディックの没後何年とかの企画展が本屋であって、『ブレードランナー』原作、って書いてあったのね。まだ映画自体は見てなかったんだけど、気になって読んでみたら、なんなんだこの宗教なのか哲学なのかSFなのかわかんない小説は!って思って。
近藤:へー!映画の方が後なんだ。
東海林:うん。高校の時にディレクターズ・カット版が金沢でも公開されて見に行った。映画の中でずっと雨が降ってるじゃない?その日は晴れてたんだけど、見終わって家に帰るまでずっと雨上がりだと思い込んでたのね。映画見てる間に雨降っちゃったんだ、って。で翌日、きのう雨降ったよねって友達に話したら、降ってないよって言われて。もう完全に頭をやられてたよね。雨上がりの濡れた地面を歩いてたって思い込んでた。
近藤:いい話じゃん!そんなに映画に没入することってないよね。
東海林:やっぱ映画館に見に行ってそういう体験をしちゃうと、やめらんなくなるよね。その経験はけっこう大きい。『デリカテッセン』と『ブレードランナー』と、あと大学一年のときに見た『プリシラ』には影響受けたね。
近藤:『プリシラ』か!俺見てないんだよね。
東海林:ええー!なんと!
『プリシラ』は、大学のとき新宿のミラノ座の横にあった小さい映画館で見て、生まれて初めて、終わった後に拍手した。なんか自然とね、拍手しなきゃいけない気がして。
近藤:『プリシラ』はいわゆるドラアグ・クイーンを世間に認知させた先駆けだよね。いまではLGBT系の映画も多いし映画祭なんかも増えてるけど、当時はまだあんまりなかった気がする。
東海林:そうだね。東京国際レズビアン&ゲイ映画祭がはじめてコンペ部門を設けたのが、僕が大学一年のときで、1994年くらいだからね。
近藤:東海林、バイセクシャルでしょ?それはいつ頃から自覚したの?なんか人と違うな、とか。
東海林:3歳のときに『一休さん』のアニメを見て一休さんが柱に縛られて泣いてるシーンですごい興奮してムラムラしたのを覚えてて。それは忘れられないね。でもその感情がなんなのか、その時はよくわかってなかった。そのあと中学校のときに、同級生の男の子を好きになって。もう確実に好きだってわかって、悩んだよ。オタクだし、SM好きだし。
近藤:それは悩むね。オタクで同性愛でSM好きって、もうお先真っ暗って気になるよね。
東海林:そう、ホントにお先真っ暗。だから、一回自殺未遂はしてる。
近藤:え、ほんとに?中学で?
東海林:うん。そんだけマイノリティ重なっちゃったら、もう生きてくのめんどくさいから。
近藤:そうなんだ。けっこう深刻じゃん。よく生き延びたね。
東海林:そう、そこを生き延びちゃったから、そのあとは楽なもんだけど。
近藤:俺らが中学のころって、バイセクシャルってまだあんまり知られてなかったよね?ゲイだって、まだホモって呼ばれてたと思う。
東海林:そうそう。ゲイっていう言葉自体も知らなかったし、保毛尾田保毛男(※ホモオダ・ホモオ。80年代のとんねるずのコントに登場する、「ホモ」をデフォルメしたキャラクター。)の時代だよね。
近藤:俺だって小学校のとき、普通に保毛尾田保毛男を笑ってたからね。たぶん、ホモホモとか言ってネタにしてたと思う。
東海林:いや、僕も笑ってたもん。とんねるず好きだったしコントは面白いから。でもほんとね、次の日に学校行くのは辛いです。自分も笑ってたくせに。
近藤:俺のまわりにも同性愛のやつがいた可能性だってあるわけだよね。もしかしたら当時の俺の行動や発言で傷ついて、いまも忘れられないかもしれない。それを想像すると・・・当時はそれが笑っていいものとされてて、きっと何も考えず笑ってたんだよね。その後いろいろ考えるきっかけがなかったら、いまだって昔の価値観のままだったかもしれないと思うと、恐ろしいよ。
でも、保毛尾田保毛男もこないだ問題になったし(※2017年9月『とんねるずのみなさんのおかげでした。』30周年記念スペシャル番組で保毛尾田保毛男が復活。差別的表現だと抗議が殺到し、フジテレビは謝罪した。)、時代は変わってきてるな、って思う。大きなところに出て発言する当事者の人なんて、昔はいなかったよね。
東海林:少なくとも、あんまり知られてはいなかったよね。美輪明宏とか美川憲一とかおすぎとピーコとかはいたけど、ちょっと変わった面白い人っていう見え方でしかないので。
近藤:そうだね。そこは役割というかポジションが違うよね。いまは当事者が発言するようになったし、同性愛に限らず、映画業界でも『童貞をプロデュース』問題 (※『童貞をプロデュース』(2007) 出演者の加賀賢三が、松江哲明監督による性行為の強要を告発するが、松江および制作サイドは取り合わず10年以上に渡り上映を続行した。2019年にガジェット通信による加賀氏へのインタビューにより問題が再注目され、当事者の話し合いも持たれるが、松江のその後の対応があまりに酷く問題は収束せず。松江はその後も沈黙を続けている。) が話題になったりとか、深田晃司がハラスメントに対して声明を出したり(※2019年11月、映画監督の深田晃司が撮影現場に蔓延するハラスメントに反対するステートメントを発表した。)とかしてるじゃん。
俺らはいま古い世代と若い世代の中間ぐらいの歳なわけで。ようやく変化が起こってきてるんだから、そこに、言ってみれば乗るか乗らないか、みたいなことがあると思ってるんだよね。古い世代の人たちはもう仕方ないし、若い人たちは最初から変化の中に生きてる。でも俺らの世代は、態度が問われてると思うんだ。俺もデモ行ったりはしてないけど、話はするし、思うことは言うよ。ムカついたらムカついたって言う。そういうことを、意外とみんなしない。でもそれをするのとしないのって、けっこう違うような気がしてる。
東海林:まあ昔から、政治と宗教の話はしないほうがいいって言われてるからね。それは僕はやっぱ気に食わないなーと思ってて。なんでみんな政治や権利のことに興味を持たずに過ごせるか、っていうのが不思議だね。自分の生活に直結してることのはずなのに、なんで興味もたないの、って。
近藤:そうだよね。それに、権利や差別の問題って、単純にムカつくじゃん。当事者じゃなくても、同性愛差別でも女性差別でも韓国人差別でもあるいはミュージシャン差別でも、なんだってムカつくよ。みんなムカついたら、そう言えばいいだけなのに。
近藤:発言するだけじゃなくて、東海林みたいに当事者として作品を作るのは意味があると思うんだよね。それって、映画撮ることで悩みとか葛藤とかが楽になったりする部分もあるの?
東海林:ハタチのときに自分のモヤモヤを作品にしたくて最初の映画を撮ったことで、ようやくいろんな人がいていろんな言葉があるっていうことを知って、すごい楽になったよね。それ以来、マイノリティの葛藤とか悩みっていうのは、あんまり感じなくなった。『ロスト・イン・ザ・ガーデン』っていう映画で、東京国際レズビアン&ゲイ映画祭(※現レインボー・リール)で審査員特別賞をもらったのね。その時、まだまったく映画に関する知識がないから、完パケのテープを送っちゃったんだよ。返却されないっていうのも知らなくて。
近藤:コピーじゃなくてマスターを?マジで!?
東海林:そう。で、おととしレインボー・リールで『老ナルキソス』がグランプリもらったときに、実は20数年前にそういうことがあったんですよ、って言ったのね。そしたら当時スタッフだった人が、こないだ引越しがあってたぶん捨てちゃったんですよね、って。だから僕も記憶の中にしかない(笑)。
近藤:幻の映画だね。かっこいいじゃん(笑)。
東海林:そのときに、『骰子(ダイス)』(※映画会社アップリンクが発行していたアート雑誌)のインタビューと映画祭のパンフレットに答える形でカミングアウトしたんだけど、それを見た同級生の友達に、ウソでしょ?かっこつけてポーズで言ってるでしょ?って言われたのね。真面目に取り合うのバカバカしいなって思って、それからあんまり言わなくなった。
近藤:ポーズでそういうことを言う人、いるの?
東海林:いるんじゃない?まあ商業オカマ、みたいな。
近藤:それは、あんまり気持ちよくないね。
東海林:そうそう。でもそれをまた否定するのもバカバカしいな、と思って。
東海林:映画祭に出したのが1994年あたりで、その頃ちょうどゲイムービー・ブームみたいなのがあったんだよ。
近藤:そうなんだ。それまでって、ゲイムービーってどんなのがあった?パッと思いつくのは、『モーリス』とかのイギリス美少年ものだけど。
東海林:『真夜中のパーティ』とか『ベニスに死す』とか。あとデレク・ジャーマン。
近藤:なるほど。いまはゲイムービーって紹介されたりもしてるけど、昔はデレク・ジャーマンを見ても、俺の中でゲイとか同性愛っていうのはそこまでキイワードになってなかったな。
東海林:そっか。じゃあどういう風に見てたの?
近藤:うーん、普通の映画と同じかな。いわゆる同性愛ものだと、たとえば『ブロークバック・マウンテン』とか、同性愛ものっていうより普遍的に素晴らしい映画だと思うんだよ。
近藤:隠さなきゃっていう葛藤とかは、演技も含めてすごくよく描かれてるけれど、俺はたぶん自分の中のいろんな感情に置き換えて見るわけで。当事者じゃないから当たり前だけど。同性愛を描いてるから、っていうことで見るわけじゃない。
東海林:根本的には人間の普遍的な感情しか描いてないわけだからね。
近藤:ゲイムービーではないけど印象的なのは『アメリカン・ビューティー』。
近藤:あれの最後でさ、隣の家のお父さんがさ。
東海林:ああ、そうそう!めっちゃホモフォビア(同性愛嫌悪)なお父さんが、自分がゲイだって気がつく。あれは悲惨だけど、すごいグッとくるよね。ああいう人って、自分の中に同性愛があることに、だいたいみんな薄々感づいてる。
近藤:それを否定したいために、極端にマッチョな方に・・・。
東海林:そう、マチズモ(男性優位主義)に走っちゃう。だから自分の中にまったくその感覚がない人は、そもそも恐怖でもなんでもない。自分の中にあるから怖いんだよね。いけない、あってはならないって思ってるのに、自分がそうだって気がついた瞬間て、やっぱ怖いじゃない。
近藤:なるほどね。あのシーンはとても印象深いよね。あれはたまらないだろうと思う。
東海林:でも、ああいう人は本当にいるんだよ。アメリカってまだ同性愛の矯正施設があるのね。半分拷問みたいなことをやって人格矯正してしまう、っていう非人道的な施設。たぶん去年かおととしの話なんだけど、そこで所長として同性愛矯正に関わってた人が、実はゲイなんです、ってカミングアウトしたんだよね。
近藤:それすごいね!
東海林:自分がそうなんだけど認めたくないから、他人を矯正しちゃうんだよ。
近藤:うーん、それはせつないね、って、せつないなんて言葉は合わないけど・・・しんどいだろうね。
近藤:映画祭に出したのって、大学のときでしょ。卒業はしてないんだよね?
東海林:うん。大学辞めて、もともとバイトしてた立川のセブンイレブンで土日の深夜だけ働いて月8万くらい稼いで、あとはVJやってた。VJってまだやってる人が少なくて、それこそ宇川(直宏)さんくらいしかいなかったから、あっという間にいろんなとこに呼ばれるようになったんだよね。
東海林:それで自分でも発表の場がほしいから、下北のBasement Bar でオールナイトのイベントを毎月やるようになって。ひどい赤字のイベントだったけどね。オールジャンルのDJイベントで、DJはいろんな人が交代だけど、VJは自分たちだけで一晩中やんなきゃいけないっていう、地獄のような。
近藤:VJコーナー、とかじゃなくて、ずっと?
東海林:そう。VJは一晩中流してるっていう、もうストロングスタイルで。
近藤:それはすごいね!
東海林:お金にはならなかったけど、いろんな人が面白がってくれて。ちょうどCS放送が始まったころで、テレビのディレクターがイベントに遊びに来て、一緒に番組やろうよ!って誘われたり、アップリンクと繋がって映画の予告編をやるようになったりして、本格的に映像が仕事になりはじめた。だからVFX(※ビジュアル・エフェクツ。CGなどを使った映像の特殊処理。)を仕事にするようになったのって、完全に偶然なんだよ。
当時はCGってまだすごく高くて、へンリーっていう一台3億円くらいするCGマシーンとかで作ってたのね。その時代に、個人で家で合成できるやつがいるっていう噂が業界で広まって。売れる前のアーチストを抱えてる会社が声かけてくれてPVやったり、そこからどんどん仕事になっていった。
東海林:そんなこんなで忙しく働いてたんだけど、あるときネットゲームをはじめたのね。それまでメールもやってなかったのに、ゲームやるためにインターネット繋げて。人とも適度な距離が取れるし、あまりにもその世界が心地よすぎて、気がついたら引きこもってたんだよね。2年くらいそうしてたかな。
近藤:フリーで仕事受けながら、引きこもってたわけ?
東海林:そう。当時はまだネット回線が太くなくて、合成する映像素材は直接もらいに行かなきゃいけないから、月に1回だけハードディスク持って都心まで行って、あとは家で作業してた。で、ゲーム内で、地方の19歳の女の子と結婚したんですよ。
近藤:なんなの、それ?同じゲームをやってたってこと?
東海林:そう。僕の主催してたゲーム内のチームに彼女がメンバーとしていたんだよ。もともとは、同じチームにいた別の男が彼女に粘着してたの。会いたい会いたいって。で、彼女に相談されて、彼を遠ざけるために、僕ら付き合ってるからっていうことにして。そしたらそのうち彼女のほうから、ゲーム内で結婚しない?って言われて、面白そうだしやってみよう、って。
近藤:じゃあわりと気軽な感じで。
東海林:もちろん。あくまでゴッコだから。でも、もともと気が合うから同じゲームやってるわけだし、どんどん楽しくなっちゃって。お互いの顔も写メで送ってるし、電話番号も知ってるし。そのうち、彼女が他の人と(ゲーム内で)遊んでることに嫉妬してる自分に気づいた瞬間があって、あこれもうマジじゃん、って思った。ただの恋じゃん。って。
近藤:へー!その子とは、会ったの?
東海林:会った。このままハマってたらどんどん仕事もなくなってくし、ゲームをやめて生活を正さないとダメになってしまうから、最後に彼女に会ってゲームをやめよう、って思ったのね。
で、そのときちょうど新宿ロフトでVJやることがあって彼女を誘ったら、リハ中に隣のビルが火事で燃えてロフトまで煙が降りてきて、イベント中止になったの。
近藤:えーすごいね!じゃあ彼女はVJ見てないの?
東海林:うん。リハは見てたけどね。で、ウチに来て二人でご飯食べて、彼女が『呪怨』が見たいっていうから近所のTUTAYAで借りてきて。で、しよっか?てなったら、彼女はまだ19歳で照れもあったろうし、やだ、って言ったの。そのときなんか、ホッとしたんだよね。断られた、ここで関係を絶ってもいいんだ、って。
近藤:なるほど。戻れる、と。
東海林:そう、戻れる。わかった、って言って何もせず寝て、翌日そのまま帰した。それっきりゲームをやめて、彼女とはそれ以来会ってないし連絡も取ってない。
近藤:いまの話むっちゃいいじゃん。
東海林:そこで肉体的に結ばれちゃってたら、たぶんゲーム辞めれてなかったと思うんだよね。
東海林:ゲームやめたとき29だったんだけど、ちょうどそのタイミングでエロVシネの監督の話がきて、いまの自分はこれをやるしかない!って思って監督デビューしたのね。それ以来、なんとなくいい具合に繋がってる。
近藤:『喧嘩番長』シリーズとか、他にもけっこういっぱい撮ってるじゃん。
監督仕事は、VFXとはまた別だよね?
東海林:そうだね。30代はホントとにかく仕事でお金稼がなきゃ、と思ってた。最初はVFXがメインだったけど、徐々に逆転して、演出家としての収入の方が増えていったね。
近藤:自分的には、どっちなの?
東海林:演出家だね。VFXは技術職なんで、最新技術に常に目を光らせて取り入れていかないとダメだから。もちろん普遍的な部分もあるんだけど、新しいテクニックだったり機材だったりは常に勉強しなきゃいけなくて、個人でやるにはちょっと辛いんだよね、予算も含めて。情報交換できる仲間がいっぱいいるところでやった方がいい結果が出るから、VFXを一生仕事として続けるんなら、法人化して会社にした方がいいと思う。
近藤:なるほど。
それまでも、監督や演出をやりたいとか映画撮りたい、とか思ってたの?
東海林:20代の頃は、半分あきらめつつも、自分で演出やりたい、っていうのはやっぱずっとモヤモヤしてた。だから最初のエロVシネは、まったく経験ないのに二つ返事でやるって言っちゃったんだよね。クランクインの10日くらい前に監督が降板してまだ脚本もなくて主演も決まってないっていう状態だったから、まあ大変だったけど。結果的にいまにつながったわけだから、よかったよ。
近藤:いわゆる自主映画を撮り始めたのって、遅いんだよね?
東海林:19のときに一本撮って、そのあとはずっと撮ってなかったからね。『23:60』(2007年)はCGだし引きこもり時代の自分を総括するためにやったから別として、『ピンぼけシティライツ』が4〜5年前だね。あれは、主演の星能(豊)くんと梅沢(佐季子)さんから、私たちを主役にして短編を撮って、って言われたの。とある映画祭の、役者発信でなにかやろうっていう企画だったらしくて。でも正直、『ピンぼけシティライツ』に関しては、後悔みたいなものがあるんだよね。いちおうやりたいことはやったけど、技術でうまく綺麗にまとめてる。それに気がついたときは、けっこうショックだったね。
近藤:それは、できてから気づいたの?
東海林:できてから、いろんな映画祭に出品して、他の人の映画と見比べたときだね。みんなパッションがあふれてる、というか、やりたいことやってる。俺はプロとして悪い手癖というか技術に囚われちゃってるな、って思ったんだよね。それで、自分の好きなことだけやりたくて、翌年また撮ることにした。
でも、好きなことっていても、じゃあなにやる?ってなって、自分自身に立ち返ったときに、ゲイ・ムービーだ!って思ったのね。いまこそやるべきじゃないかって。で、周りを見渡したらちょうどLGBTブームだったんだけど、どの映画を見ても綺麗な映画ばっかりで、僕が20代の頃に見てたような、例えば『プリシラ』とか『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』みたいな、いわゆるクイアな(=変な)やつがなかった。
近藤:その頃のLGBT映画って、どんなの?『アデル(、ブルーは熱い色)』とか?
東海林:『アデル』とかグザヴィエ・ドランの『わたしはロランス』とかは好きだけど、それとは別に、邦画でいわゆるBL ブームに乗っかった商売的なものがのいっぱいあったんだよ。自分のセクシャリティに悩んでそれを打ち破って、っていう話自体はいいんだけど、どれを見ても綺麗で、クイアじゃない。じゃあ俺がもっとクイアな映画撮ってやる、って思ったのね。で、自分自身もSM好きだけど歳とって体も衰えてるからお店に行きづらい。そういうのをちゃんと映画にしたいって思って撮ったのが『老ナルキソス』。だから、あれも自分のことなんだよね。
近藤:『ピンぼけシティライツ』(2016年)、『老ナルキソス』(2017年)、『ホモソーシャル・ダンス』(2019年)、『帰り道』(2019年)、4作ぜんぶ違うよね。
近藤:『ホモソーシャル・ダンス』なんかは、スーパー異色だし。ダンス映画というか、セリフもない。俺は好きだけど。
東海林:よかったよかった。あれはみんなリアクションに困るよね(笑)。
近藤:あれはすごくいいよ。異色すぎて他と比較もできない。
『帰り道』は、自分も音楽やってるから客観的に見れないけど、直球だよね。最初ラフを見た時、東海林こんなシンプルなの撮るんだ、って思ったもん。
東海林:『帰り道』はもうホント素直に、超ストレートに撮った。あれは、国内の評判はいいんだけど、海外に関しては難しいと思う。1940年代の戦時中の日本、っていうのがわかりづらいんだよね。テロップも出ないし背景説明がないから、日本が敗色濃厚で戦争行ったらきっともう二度と帰れない、っていうところまでは理解できないかもしれない。海外もそれなりの数の映画祭にエントリーしてるけど、苦戦するかも。
近藤:すごいよね。自分でそんなに海外に出してる監督って、多くないんじゃない?
東海林:そうかもね。でもやっぱ作ったら見てもらって、上映してる場所に行かないとダメだと思うんだよ。もちろん賞もらえば嬉しいんだけど、それって自己顕示欲というか自信が満たされるだけで、あんまり意味がないような気がしてて。やっぱり現場に行って他の作品と見比べて、そこにいる人の感想を聞いて、それをどう活かすかっていうことを考えないともったいないな、と思ってる。そもそも入選すること自体だって難しいから、入選したらなるべく行きたいな。
近藤:ホントに、それはマジでリスペクトするよ。音楽でも、つくるのはみんな当たり前にやるんだけど、そのあとのことって、事務作業があったり人と会ったり、音楽とは直接関係ないじゃない?だからみんなやらない。いい音楽作ってる人はいっぱいいるけど、作ってもそこで終わってしまうというか、広く聞かれないっていうのはすっごいよくあることなんだよね。
東海林:どこを自分のゴールにするかだよね。作り終わったらゴール、っていう考え方ももちろんあるとは思うんだけど。作り終わったあとのことって、監督の仕事じゃないといえばそうだけど、せっかく見てくれそうな人がいるのに宣伝しないのはもったいないな。
近藤:単純にすごいと思うよ。ホント素晴らしい。やっぱり何かしらアクションしないと、知り合いにしか届かないからね。
東海林:いわゆる小劇場ブームみたいなもんだよね。身内で回しちゃう。正直、いまのインディーズ映画界ってちょっとそうなりそうな空気がある。だから、外にひろげていかないとダメだなーと思うんだ。
近藤:長編撮りたいとか、あるの?
東海林:そりゃあ撮りたいよ!いくつか動いてるのもあるし、企画書出してるのもある。それをなるべく、会社からの依頼ではなく、自分の企画としてやりたい。脚本は自分じゃなくてもいいんだけど。それが次の目標かな。
近藤:いいじゃん!まあ、お金とか具体的なことはいろいろあるかもしれないけどさ、そうやって思って、見えて、やってるっていうのは、すごくいいよ。
いわゆる商業仕事が天職になる人もいるわけだけど、東海林は違ったんだろうね。
東海林:そうだね。やっぱ物足りなかった。けっきょく、やらされてる感が大きくなっちゃったんだよね。この何年間かで、自分の中の作家性を追い求めるしかないっていう覚悟を決めた。でもそれって、怖いことじゃん。作家性を追い求めたがゆえにメシが食えなくなる人なんて星の数ほどいるし。だからこそ自分は、商業監督として技術に寄せた生き方をしてきたのに、けっきょくそこに目を向けざるをえないんだ、っていう。まあうまくいくかは別として、見通しはあるから、あとはそこに向けてがんばればいいかなって思う。
近藤:そんな中で、よくMV受けてくれたよね。
東海林:それはまあ映画の音楽もやってもらったしさ。でもMVに関しては、基本的に知り合いじゃないと受けない。やっぱ特殊だし、技術的なことや制作的な面も含めて、MV業界ってあると思うのね。僕が駆け出しの頃は、丹下紘希さんとか有名なMVの人がいっぱいいて、中途半端に手を出しちゃいけない気がしてた。僕も昔はMVもやったけど、どれも納得いかなかったんだよね。やっぱMVは専門の人に任せた方がいいな、っていうのはいまでもある。
近藤:なるほどね。逆に、よく俺に音楽頼んだなとも思うけどね。だって映画の音楽なんてやったことなかったし。
東海林:そうなの?久しぶりに会って音源聴いたときに、めちゃかっこいいじゃん!って思って。それはもう冗談でもなんでもなく。
近藤:いやそれはもちろん嬉しいよ!でも、音楽頼むって、また一歩先の話じゃん。しかも、そんなに具体的な指示もなかったと思う。
東海林:いちおうイメージの音楽はつけて渡したし、それで十分だと思った。あんまり言っちゃったら、人に頼む意味なくない? ぜんぶ自分がコントロールしちゃったら、自分でやればいい話だから。
近藤:あーそれはわかるな。俺もできるだけ言わないようにしてる。今回のMVも、最終的にできたものは最初に伝えたイメージとはぜんぜん違うじゃん。ここでこの絵を使って、とか具体的に言うこともできただろうけど、そうすると驚きがないんだよね。俺の頭の中のイメージを具現化するだけなら、技術がある人を雇えば誰でもいいわけで、別に東海林じゃなくてもいい。そんなの、なんの意味もない。
東海林:そうだね。それは想像を超えられなかったってことだよね。お互いのやりたいことを、どういう化学変化が起きるか探り合って落しこんでく方がクリエイティブだし、楽しいよね。
近藤:その通りだね。自分の中にないものが出てくるのが、共同作業の醍醐味だよね。いやー、いいのできてよかったよ!
東海林:そうだね。反応が楽しみだよ!
近藤:だね!東海林の長編も、楽しみにしてるよ!
蔵野美術大学在学中から映像作家活動を開始し1995年 第4回 東京国際レズビアン&ゲイ映画祭にて審査員特別賞を受賞。『劇場版 喧嘩番長』シリーズなどの商業映画を監督する一方、VFXアーティストとしても映画やテレビで幅広く活動している。
近年、表現の幅を広げるために自主映画にも力を入れ、ゲイの老いと性を描いた「老ナルキソス」(2017)は第27回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭(レインボー・リール東京)でグランプリを受賞したほか国内外の映画祭で10冠を達成。2019年3月には自主短編映画を集めた自身初となる監督特集『偏愛ビジュアリスト』が池袋シネマ・ロサにて1週間行われ好評を博した。
2020年秋に漫画原作の長編『はぐれアイドル地獄変』が公開待機中。
京都に、一風変わったウェブ・ストアがある。サイト内のカテゴリー分けからして妙だ。「ROCK/POPS」などに混じって、「世界の音楽」「日本の音楽」「奇妙な音楽」といったワードが並んでいる。どんな音楽か、予想がつかない。試聴してみると、どこかヘンテコな音楽が次々と流れてきて、未知の音楽との出会いについ時間が経ってしまう。第一回のインタビューに登場した長久保寛之のソロ・アルバムとも、ここで出会った。of Tropique のアルバムも扱ってくれている。
パライソレコードの野田晋平が東京に遊びに来るというので、さっそくインタビューを申し込んだ。このおかしなサイトを運営してるのは、どんな人物なんだろう。インドアな音楽オタクの風体を想像していたが、待ち合わせ場所に現れたのは、「現場」の匂いがする粋な男だった。新橋の外れの地下、音楽好きに愛されるバー、ARATETSU UNDERGROUND LOUNGE で、話を聞いた。
[取材&写真:近藤哲平]
野田:生まれは福岡で、育ちは京都です。
最初は長渕とかXとか、テレビで流行ってた普通のポップスの聴いてたんちゃうかな。
ー同世代ですよね。僕も爆風スランプとかTMネットワークとか聴いてました。
野田:ああ、そのへんですね!洋楽を聴きだしたのは、中学くらいかな。『(天才・たけしの)元気が出るテレビ』で、ダンス甲子園ってあったじゃないですか。あれのダンスに使われてる音楽が好きになったんです。はじめて買った洋楽のCDは、ボビー・ブラウンですからね。あとMCハマーとか、あの感じです。ダンス・ミュージック、ブラック・ミュージックからヒップホップにハマっていって、スヌープ・ドギー・ドッグとかDr.ドレとか、G-Funk系を聴いてました。
ミュージック・クリップだけを延々1時間半流す、SONY MUSIC TVっていう番組があったんです。それをビデオに録って早送りして、黒人が出てたらそこだけ再生して見てました(笑)。その番組で、ベスト・クリップ特集みたいな日があって、ニルヴァーナの“Smells Like Teen Spirit”が流れたんですよ。映像が気になって見てみたらそれが衝撃で。ホンマに洋楽にのめり込んでいったのって、そこからですね。
ー僕はグランジ(※1990年代にシアトルを中心に興った音楽ムーブメント)ってぜんぜん通ってないんですよ。ニルヴァーナからだと、どう広がっていくんですか?
野田:やっぱりニルヴァーナ周辺の音楽ですね。ソニック・ユースが好きでした。ペイヴメントとかボアダムズとか、当時ローファイ/ジャンクと言われてたものにも影響受けましたね。正当じゃなくてもかっこいい音楽もあるんやな、って。ちょうどBECKも“Loser”で出てきた頃で、フォークやけどヒップホップみたいやし、やのにぜんぜん歌も歌詞もやる気ないってのがわけわかんなくて、すごい新鮮でした。
野田:あと好きだったのはビースティ・ボーイズですね。ルシャス・ジャクソン、ショーン・レノン、ベン・リーとかグランド・ロイヤル・レーベル(※ビースティ・ボーイズ主宰の音楽レーベル)に所属してるアーチストはホンマにぜんぶ、かっこよかったですね。
ー僕、マニー・マーク(※ビースティ・ボーイズのサポートで知られる鍵盤奏者)のソロがすごい好きなんですよ。初期のインストの頃の。
野田:ああ、『Push the Button』とかすごい好きですね〜!あの辺はかっこよかったですね。
野田:そのあと、ジョン・スペンサー・ブルース・エクスプロージョンから、ガレージ(※1960年代のアメリカの若者によるアマチュア・バンドをルーツに持つ音楽ジャンル)にハマりました。
野田:レコードは高くてなかなか買えなかったんですけど、関西ではガレージが流行っててイベントがいっぱいあったんですよ。DJのキングジョー(※森本ヨシアキ。イラストレーターとして、ザ・ハイロウズやクレージーケンバンド、坂本慎太郎のアートワークも手がける。)が、『SOFT, HELL!』 ってフリーペーパーとかビデオなんかを作ってガレージシーンを盛り上げてて、そこでペブルス(※1960年代後半のアメリカのガレージ・バンドの音源を集めた編集アルバム)を知りました。ガレージのB級感が好きだったんです。日本のバンドだと、Jackie & The CedricsやThe 5.6.7.8’s(ゴロッパチ)とかですかね。
ーペブルスまで行くと、どんどん横にも広がっていきますよね。
野田:そうですね。ニルヴァーナの頃はリアル・タイムの音楽を聴いてたんですけど、ガレージにハマってからだんだん昔の音楽を聴くようになりました。大学にビートルズとかクイーンとかデビッド・ボウイなんかの超王道なロックが好きな友達がいて、そいつの家行ってそんなのばっかり聴いてました。そのときはDJもまだやってなかったし、ホンマ聴く専門ですね。
「名盤探検隊」っていう再発シリーズあったじゃないですか?
ーありましたね!あれはよかったですね!
野田:当時、再発のCDがホントによくって。買うCD買うCDぜんぶビックリですよ。ああいうのでシンガー・ソング・ライターやルーツ・ミュージックを聴くようになりましたね。レコードの再発もすごくて、けっこう買いました。
ーバンドはやらなかったんですか?
野田:うーん、断念してますね。というか、楽器買うお金があったらレコード買いたかったし(笑)。もっと後になりますけど、呑み屋のお客さんで集まって、ジョナサン・リッチマンの”Egyptian Reggae”をカバーしたんですよ。なかなか変でかっこよかったと思うんですけど、完成しかけたところで終わりました(笑)。僕はピアニカとリズムボックス担当でした。リズムボックスに「演歌」っていうリズムがあったので、それ使って。もしかしたら、ドサ回りしてた演歌歌手も、これでビール・ケースの上で歌ってたのかな、とか思って、泣けてきましたね(笑)。
野田:大学出てしばらく経ってから京都のタワーレコードに入って、13年いました。
ーいいですね!僕もタワレコでバイトするのに憧れました。そうなったら、やっぱ情報もどんどん入ってきますよね。
野田:そうですね。でも、外から楽しそうに見えることって、全体の5%くらいですけどね。たとえば店の音楽も、売れてる音楽だけをかけてますから。好きなものをかけられるわけじゃない。東京の大きなお店はわかんないですけど、京都とか中小規模のところはぜんぶ決まってます。1時間でだいたい1周するんですよ。レディ・ガガとかも最初はいいなと思ったんですけど、半年間ずっとかかりっぱなしだったんで、しんどかったですね。マイケル・ジャクソンが死んだときなんて、1年くらいずっとかかってましたからね。
ータワレコではどんなことをやってたんですか?
野田:バイヤーです。ジャンルごとの売り場に配属されるんですけど、間接的に関わったものも含めると、ほぼ全ジャンルやりました。いちばん長かったのはJ-POPで、ジャニーズあたりのオリコン系から自主制作みたいなインディーズまで何でも扱ってましたよ。
野田:最後の2〜3年はもう管理職だったんで、お金と人の管理しかしてなくって、ずっとバックヤードで仕事してました。気づいたら今日CD触ってないやん、っていう。金銭やシフト管理、電話応対とか、メチャメチャやることあるんですよ。あとクレーム対応ですね。CD聴けない、とか。それは大体お客さんの家のプレイヤーが悪いんですけどね。でも、聴けるってことを証明せなあかんので、プレイヤー持って行って、聴けますよね、って。
ーえ、家まで行くんですか?
野田:行きますよ、来いと言われたら。けっこう多いんですよ。DVDは特に多いですね。あとは買ったけど特典が入ってない、とかね。
ーだんだんCDが売れなくなってきた時代ですよね。
野田:そうですね。あきらかに売れなくなってきてるのがわかりましたね。ヤバいなって思ったのは、会社の目標が「あきらめない」みたいになった時があって。
ーあきらめたくなっちゃうから(笑)。
野田:そうそう(笑)。
当時のタワレコは、潰れないための努力をしてたって感じやったし、ぜんぜん面白くなかったですね。辞める頃は、もうホンマCDが売れなくなってきて、アイドルイベントの即売会とかしょっちゅう外販(※ライブハウスなど、店舗以外での販売)に行ってました。握手券がもらえるからひとり何十枚も買うっていう。売上げとしては大きいですからね。朝9時に行って夜12時に帰るみたいな生活がずっと続いて、休日も行ったりしてましたし、しんどかったです。そんな状況やって、社員の早期退職を募ってて、それで辞めたんです。その時は、店長クラスの人とかまで、けっこう大量に社員が辞めたんですよ。
ー規模縮小みたいな感じだったんですか?
野田:そうですね。当時まだアナログが売れ出すなんていい話題もなかったですしね。
野田:ほんで辞めてすぐ、Carole KingってBARをやってるバンドマンの友達から、ウチにレコード置かへん?って話があったんで、パライソレコードって名前で委託販売を始めたんです。いつかレコード屋やりたいなって思って、タワレコいるときから販売用に集めてたんですよ。
なんやかんやしてるうちに、京都の100000t(じゅうまんとん)アローントコっていうレコード屋が、うちの店にも委託で置いてええで、って言ってくれて。Carole Kingの方はロック好きのお客さんが多いんで王道系にしてたんですけど、100000tの方はいまのパライソっぽいラインナップにして、そしたらけっこう売れたんですよ。それが2014年ですね。
2年くらい前からウェブに移行して、委託はほぼやめました。けっこう常連さんも増えてきて、いまウェブ・ショップとしては3年目ですね。
ーウェブだと、お客さんとのやりとり、コミニュケーションてどうなんですか?店舗みたいに直接話せるわけじゃないですよね。
野田:うーん、あんまりないですね。だからたまにメールくれる人がいると、やっぱ嬉しいですよ。やりがいになりますね。お客さんに新しいレコード教えてもらうこともあります。あと、知らないものでも買ってみるっていうお客さんもけっこういますね。
ーお店のカラーが明確だし、パライソが推してるから、っていうお客さんもいるでしょうね。いい意味で、すごく趣味性の高いラインナップだと思います。
野田:趣味性しかないですね。それこそ、タワレコ時代に嫌だったことはやってないです。さっき言った、全体の5%しかない楽しいことをいまやってる感じですね。
ー情報収集はどうしてるんですか?
野田:タワレコにいた当時はとにかく情報にあふれてたし、サンプル盤なんかもとりあえず聴きまくりました。DJもしてたんで友達から教えてもらったり、本・雑誌もよく見てたけど、最近なんかはやっぱりネットで知ることが多いですね。YouTubeでたまたま聴いて知ることもあるし。レコードのジャケ買いもまだしますよ。見たことないやつを買ってみたりするんで、失敗もしますけどね(笑)。
昔から、レコードを探すのが好きなんですよ。聴くのが好きな人もいますけど、自分は買ったり探したりが好きで、そこでほぼ完結してるかもしれないですね。
野田:DJでも、いらんレコードたくさん買ってる人の選曲の方が面白い気がします。失敗してる人の方が、深みがある。いまはレコードも、知ってて買う人が多いじゃないですか。100%保険付きで買ってる人のDJや音楽って、やっぱりあんま面白くない。ウチで取り扱いしてるアーチストは、みんな音楽好きですよ。やってる音楽以外のキーワードもメチャメチャ出てくるし、ああけっきょく好きなんやなーって。
ー新しい人もけっこうチェックしてるんですか?
野田:しますね。ライブはそんな行けてないんですけど、ネットとかで見て気になったら、自分から連絡することが多いです。買取はやってないんで、仕入れについてはぜんぶ自分でやってますしね。
ー買取してないと、値段付けが大変じゃないですか?自分で買った値段にさらに上乗せしないといけないわけですから。
野田:そうですね。でも、ウェブ・ショップなんで、家賃もないし年中無休24時間営業みたいなもんだし、諸経費を考えると、普通の店が儲けから経費引いたのと変わらないんじゃないかなと思ったり。カタログも、定番化してるのも含めて、増え続けてますから。売り切れたのもぜんぶ残して聴けるようにしてますしね。レコード売るだけじゃなくって、いろんな音楽があるっていうのが伝わればいいなと思ってて。
ーそれは素晴らしいですよ!やっぱり聴かないとわかんないですからね。
ー海外にもニーズがありそうですよね。
野田:海外からの問い合わせもたまにありますよ。つボイノリオがどうしてもほしい、ってメールが来たことがあります(笑)。
ーまたマニアックですね(笑)。
野田:海外は、ドルがめっちゃ安い頃に、eBay(※海外のオークション・サイト)でペルーとかから7インチ(※シングル盤レコード)をメチャメチャ買いましたね。あっちって、海外発送する時に身分証明を貼り付けないといけないらしいんですよ。ダンボールに免許証みたいなののコピーが貼ってあるんです。なかなか発送されなくて連絡したら、その手続きが大変でって言われました。けっきょく届かなかったこともありますけど(笑)。
野田:いまは、タイなんかでも外国人がいっぱい買いにくるようになって、レコードの値段が上がっちゃってるみたいですよね。レア・グルーヴ的なもんて、やっぱりそれなりに値段も高くなるし、そういうのはウチの店とちゃうかな、って思うんです。DJ向きの店とかでもないし、あんまり海外買い付けって感じじゃないのかな、って。
ー海外に買いに行ったことはあります?
野田:タイとメキシコには行きました。メキシコは、京都でDJしてるときにメキシコ人に喋りかけられて遊びに来いって言われたんで、何も考えず行ったんですよ。向こうでDJもやりました。そいつが、「日本で有名なDJがくるから」って嘘ついて(笑)。けっこう人集まって、面白かったですね。
レコードは、商店街のフリマみたいな店でいっぱい買いました。おじいちゃんが計算できへんから、隣の店の兄ちゃんに計算してもらって(笑)。桁が上行くと計算無理や、みたいな雰囲気でしたね。普段、そんないっぱい買う人なんていないんでしょうね。ブートのCDR屋もすごいいっぱいあって、CDを正規で買うような国じゃないんだなーって思いました。これ欲しいって言ったらその場で焼き始めましたからね(笑)。
あと面白かったのは、電車に物売りが乗ってくるんですよね。演説してるだけのおばあちゃんとか、背中にスピーカーしょってCDR売りにくるやつとかいて。
ーああ、来ますよね!僕が昔メキシコ行ったときも、二人組の少年がギター抱えて電車に乗ってきて、「Love Me Do」を歌うんですよ。メキシコのティーンもビートルズなんだ!って、驚きました。
ーカテゴリー分けが独特で面白いですよね。「奇妙な音楽」とか「ニッチポップ」とか。個人的に、ドクター・バザーズ・オリジナル・サヴァンナ・バンドのコーナーがあるのが気になりました。
野田:好きなんですよ(笑)。ウチのお店のコンセプトが、あの音楽に詰まってると思ってて。
野田:米米クラブもサヴァンナ・バンドを意識してたんですよね。加藤和彦とか、細野晴臣もYMOをはじめる前にかなり聴いてたらしいし、裏方で作ってるような人が影響受けてるんじゃないですかね。
ー立花ハジメの『H』も推してますよね。僕もあれ大好きなんですよ。ちょっと前にやってたLow Powersもよかったし、すごくセンスある人ですよね。
野田: サヴァンナ・バンドなんかはタワレコ時代によく通ってたジョアンっていう呑み屋で教えてもらいました。その店自体がサヴァンナ・バンドの世界みたいだったんですよ。南国風やけどフェイク感があって、すごいエキゾチックで。そこの大将にはいろいろレコードもいっぱいもらったし、知らん音楽もメチャメチャ教えてもらいましたね。
ーニューオリンズ系もけっこうマニアックですよね。タッツ・ワシントンや、あとA.J.ロリアとか。
野田:A.J.ロリアは、「ワイルドサイドを歩け」をカバーしてて、モンドっぽい流れで知りました。
( http://paraisorecords.com/?pid=133206591 )
ニューオリンズはやっぱり細野晴臣の影響はでかいですね。トロピカル三部作はメチャメチャ聴いたし、そこから広がったのものも多いです。あれでカリプソや東南アジアの音楽も聴くようになったし。
ートロピカル三部作がいまのパライソのラインナップにつながるのは、すごく納得できます。サヴァンナ・バンドもそうですけど、フェイク感というか、生真面目になりすぎないのがいいんですよね。あの三部作はオブトロのアルバムを作るときにもけっこう意識しました。
野田:オブトロは、デジタルなのものまでミックスされてるのがいいですよね。ラテンぽい音楽をやると、そのまんまやる人が多いじゃないですか。どっぷりその文化に浸かっちゃうみたいな。
ーそうなんですよねー。もちろんかっこいいバンドもいるんですけど、みんな特定の音楽しか聴いてなくて、それ以外のものを受け入れないっていうのが嫌で。東京のシーンってほぼそんな感じなんですよ。
野田:全国的にそうじゃないですかね。ヴィンテージ感を大事にするのはいいんだけど、でもなんか、そこだけで終わっちゃうんですよね。やっぱ、ミックス・センスのある人が好きですね。細野さんやサヴァンナ・バンドや、マルコム・マクラーレンなんかもそうやと思うし。「まんま」やらない。
ーパライソのラインナップも、直球ものって少ないですよね。
野田:もちろん、嫌いなわけじゃなくって、昔はそういうのぜんぶ聴いてやるっていうぐらいでしたけどね。まあ、王道系なら他で買えばいいし、ウチではそういうんじゃないのを聴いてほしいっていうのはありますね。
『モンド・ミュージック』って本があったじゃないですか。載ってるレコードももちろん好きなんですけど、考え方が好きなんですよ。かっこよくなくても、かっこよく見せれるっていうか。「くくり」さえ作れば、埋もれたものにもスポットを当てられるっていう。ウチの店で他にないジャンルを作ってみたりしてるのも、あの本の影響はありますね。
ーパライソの品揃えって、僕の考える「エキゾチック」の感じにすごく近いんですよ。マーチン・デニーとかの、いわゆる音楽ジャンルとしての「エキゾチカ」も好きですなんですけど、音楽面より実はもっと感覚的な部分がポイントのような気がするんです。
野田:アイドルはウンコしない、ってあったじゃないですか。ああいうの信じてるのって、すごいエキゾチックな気がするんですよ(笑)。間違ってるんだけど、自分の中では成立してしまっている。
ー間違ってる、っていうのはキーポイントかもしれないですね。
野田:昔の人でも、たとえばレス・ポール(※有名なギブソンのギターを生み出したギタリスト。多重録音などの実験を行い、メリー・フォードとのコンビで数々のヒットを飛ばした。)なんかも、こういう音を出したいっていうのが頭の中にあって、でもそれ出せへんから、自分で楽器に変な細工してなんとか近づけようとしたりして。そういうのがエキゾチックやと思いますね。
ーなるほど。レイモンド・スコット( ※ 1930年代より活躍するアメリカの作曲家、発明家。カトゥーン番組などの音楽を担当するかたわら、自作楽器を用いてさまざまな音楽的実験を行った。電子音楽のパイオニアと呼ばれる。)とかもそうですよね。自分で楽器まで作っちゃって。ビートルズだって、スタジオでいろんな音の実験をやってたわけだし。
野田:そうですね。写真で見た観光地に実際行ってみたらアレ?っていう感覚ってあるじゃないですか。そういう、現実とズレて自分の中の想像で出来上がってしまった世界が、エキゾチックなのかな、って。
ーなるほど。パライソのサイトも、カテゴリー分けからして野田さんの想像の産物なわけだし、だからこっちも想像力を刺激されて、新しい世界が開ける。ジョー・ミーク(※1960年代に活動した鬼才音楽プロデューサー。1967年に自殺。)風に言えば “I hear a new world” 的な(笑) 、そういう体験ができるウェブ・ショップって、なかなか貴重だと思います。
野田:ありがとうございます。ジョー・ミーク、もちろん好きですよ(笑)。
ーパライソレコード、これからも期待してます!
野田:はい。楽しんでもらえたらと思います。試聴だけでもいいんで、ぜひ!
思春期にテレビで観たニルヴァーナ“Smells Like Teen Spirit”の衝撃から音楽にのめり込む。 大学卒業後タワーレコードに13年勤務しバイヤーなどを経験。退社後の2014年「パライソレコード」の名前で BARやレコード屋などに委託販売を開始。2016年からは魅惑のオンラインショップ「パライソレコード」として ウェブでの販売に移行。世界中の魅惑サウンドを探し求め、中古レコードをメインに(ほぼ)毎日新入荷を更新中。